わたしとお姉さんは、東京に来てもハンバーガーショップを訪れていた。
確か初めて会った日もこうだった。図書館の休館日になんとなく歩いて帰ろうと、学校近くの商店街をぶらついていたらゲームセンターで声をかけられ、話をしながら駅前のハンバーガーショップに入り、テスト勉強を見てもらい、別れ際にポケベルの連絡先をもらったのだった。
それから数ヶ月。わたしはお姉さんとよくわからない関係のまま、つきあいを続けている。わたしが通っている中学の卒業生だが、彼女はもう大学生なので先輩後輩というほどに意識はしていない。たまに一緒に遊びに行くのをデートと言ってきたりするが、よくいえばミステリアス、悪くいえば適当なことばかり言うお姉さんだから、好かれているとは思いたいけど、本気なのかは半信半疑だ。わたしとしては、何度か半泣きになるくらい感情を揺さぶられたのだから、彼女のことを嫌いではない。でも、それはもてあそばれている感覚が嫌だったからなので、恋人として好きなのかどうかはわからない。
それ以前に、わたしはそれまでそういう風に他人をいいと感じたことがないから、比較する対象がない。
だとすると、これは恋なのかも。
泣くほど動揺させられ、もてあそばれているのならやめてほしいと感じたのだから。
そんなことを考えていたら、わたしの頭の中を占領している当の本人が口元の緩んだ笑顔で戻ってきた。その手にはトレイに乗ったハンバーガーセットがふたり分。
「席取りありがと。トイレ空いてたよん」
高速バスで来るなら、適当な店のトイレで顔を洗ったりするといい。泊めてくれる人にメールでそういわれていたので、新宿から恵比寿へ移動してコインロッカーに荷物を入れ、ここに来ていたのだった。
恵比寿からなら、宿にもコミケの会場にも乗り換えなしで行けるらしい。新宿駅はとても広く、さまようような気分だったので、ここがそういう駅ではないのが助かる。
お姉さんは顔を洗ってメイクも整えている。長めの黒髪が艶めいている。
うなずき、入れ替わりでわたしも行く。顔を洗い、少しためらうが歯磨きもし、日焼け止めを塗ったりする。
少し違和感は残るが、すっきりした。
トイレを出て席に戻ると、ふたつのトレイにハンバーガーとポテト、ドリンクが分けられていた。今日はわたしも、これから人が多いらしいコミケに行くし、高速バスではあまり食べられなかったので、ハンバーガーのセットにした。
お姉さんはいつも通り、たくさんもらった砂糖とミルクをコーヒーに入れている。
「いただきます」
「いただきます」
どちらからともなくそう言ってハンバーガーを口にすると、地元と変わらないあの味が口の中に広がる。
「んー、ファストフードは安定してるねえ」
そこまで言って、お姉さんははっとした顔になる。
「それともここならではって物の方がよかった? 旅だし」
「特にこだわりはないですね。今はお手洗いを借りるためですし、夜や明日ででも」
それに、東京ならではという物も思いつかない。雷おこしや東京ばな奈みたいな、お土産くらいしかない。
「そっかそっか。あたしも東京名物とかわかんないわ」
そう言って甘そうなコーヒーを飲んでいる。いいかげんだ。
「そういえば」
ハンバーガーを食べ終わり、ポテトを半分くらいつまんだところで、なんとなく切り出してみる。
「何?」
「コミケっていつくらいから行くんですか」
新宿に着いたのが十時前。腕時計の針はもう十一時をとっくに回っている。
「人多いし、午後に着くくらいでいいらしいよ。あたしら狙ってる本とかないし」
確かに欲しい物はないし、社会見学くらいの気持ちだ。
「まあ、昼休み前にここは出よっか」
「そういえば、今日って金曜でしたね」
「そーなんだよねー。夏休みだし旅行だしで、感覚がバグるっていうか、狂うよね」
そう言うと口元を緩めてへらっと笑う。目も細くなる。わたしはお姉さんのこういう笑顔が好きだ。
「お、どーしたの? いい顔しちゃって」
「いい顔だと思っただけですよ」
「誰がよー。あたし?」
またあの表情になる。そして、わたしはそれを見て笑顔になっているようだ。
自分の表情は特に意識しないほうだが、そう言われると悪い気はしない。
「そうです」
肯定したら、頬が緩んだ感覚。
こんな時は茶々を入れてこないお姉さんの間合いの取り方も好ましい。
そんな幸せを感じながら、ふたりはポテトの残りを食べ終えて席を立ち、JRの駅から少し離れた地下鉄の駅に向かう。
隣を行くお姉さんのジャンスカは、わたしが選んだブラウンのやつで、それもまたいい。わたしもお姉さんから勧められたシュールな絵柄のTシャツを持ってきているので、旅行中に着たい。
慣れない自動販売機で切符を買い、改札を抜けるとすぐに電車が来た。それに乗って揺られていると、三月のサリン事件ではこの路線も現場になったんだなあなどと、気にする人からは不謹慎といわれそうな感慨がわいてくる。
通過する駅も、ニュースで見たような気がする。
横に立っている人をちらとうかがうが、彼女はどこを見ているかわからない目で手すりを握っている。
こういう時、わたしたちは言葉を交わさない。
常に話をし続けるのは、話し続けていないといけないような気持ちになってしまうので、沈黙したままでも用事があるまで放っておいてくれるお姉さんとは気が合う。
そんなことを以前話したら、あたしも口下手だからさ。などと言われたけど。
それが心地いい。
途中、結構人が乗ってきて、わたしたちも含めて築地でそれなりの量が下りる。
「これのほとんどがコミケ組かー」
お姉さんが嘆息しているが、確かに多い。
「朝はもっと凄いらしいけどね」
そうも言われた。その流れに乗り、駅を出て通りを歩く。横には大きなお寺。空はすっきりとした晴れだが、その分日射しが痛いほどだ。
「ちょっと不格好だけど、これ被っとく?」
お姉さんがバッグから取り出したのは、タオルだった。頭に直接日光を受けないためにはいいかもしれない。ありがたく借りることにする。その端を両手で持って頭に乗せていると、なんだか体育祭みたいだ。
お姉さんもタオルを被り、ふたりで歩く。できるだけ建物のある場所を通っているつもりだが、ちょうどお昼時なので影が短い。
暑さに辟易してきたところで、大きな橋が見えてくる。
「あれが勝鬨橋だって」
見たことがあるかもしれないアーチの橋。やはりテレビや新聞で見るような場所に自分がいるのは、不思議な気分になる。
そんな旅情を掻き消すように、遮る物のない橋の上は日射しが辛い。
「暑いですね」
「あっついねー。日焼け止めも落ちちゃいそう」
お姉さんはタオルの端で顔をあおいでいるが、辛そうなのが見て取れる。以前からインドア派と自称していただけあり、わたしより参ってそうな声だ。
「日傘買えばよかったですね」
「人が多いし長い物はだめっぽいからねー」
「そうなんですか」
知らないことだらけ。いや、わたしが何も知らないまま来ているだけか。
「いやー。タオル持ってきててよかったー」
橋を渡り終えて大通りをまだ歩き、別の通りと合流する頃になると、そちらからも人が集まってきて、みんながぞろぞろと歩む。
話をしながら歩いている人たち、黙々と早歩きする人、駅に戻るのだろうか、わたしたちが来た道へ帰る人など、多くの人々に紛れ、わたしたちは言葉少なに歩いた。
そして、間近に見える建物をぐるりと反対側に回らされ、ついに辿りついた。
大きな建物がいくつかと、その間でうごめく人の群れ。出入り口には大きな看板。
「いやー、なんてーか」
お姉さんも息を吐いている。
「多いね」
「はい」
人が多いときの駅のような、誰もがどこかを目指している動きに圧倒される。
「まー、社会見学だし。君が読んでるような小説のは、あるなら多分明日」
「あるんですか」
人の流れの緩いところでゆっくり歩きながら、お姉さんが説明してくれる。
「どーだろ。君が何読んでるかよくわかんないし、まだカタログもろくに読んでないからなー。歩きながら探すってことで」
そう言って微笑まれるが、肝心なところがいい加減だ。
「今日は何でしたっけ」
「スラダンとか幽白とかのジャンプ系と、ガンダムやらロミオとかのアニメ。全般的に女の子向けかなー」
「それならうちの学校の美術部にも好きな子がいますね」
「そっかー。後輩たちも相変わらずなようで重畳重畳」
ゆるゆる歩きながら軽く説明を受ける。うちの学校でもイラストを描く子がいたことを言うと、意外にも反応が来た。
「あたしは帰宅部だったけど友達に熱心なのがいてねー。うちのって高校からも先輩たちが来るし、活発な方だと思うよ」
続く言葉に、はっとする。
「それに、そもそも元生徒だし」
お姉さんはわたしの学校の先輩に当たるのは確かなのだが、彼女の口から学校の事が語られるのがこんなにも意外だったとは。
「お姉さん、学校の友達って感じじゃないですから」
「だよねー。ゲーセンの変なねーちゃんだし、あたし」
突然見えてしまった側面から目を逸らしてそう言ってしまったが、にっこり笑ってくれたところに、何故かほっとする。
わたしが家にいるのも息苦しく、学校にいるのも窮屈だったところに、新しい世界を見せてくれた人。
お姉さんと一緒にいる間は、そういう事を忘れていたかったのかもしれない。
そう考えると、すっかり甘えてしまっている。
「学校の話、やだった?」
繋ぐことを促すように、そっと片手が出される。
「なんだか、ちょっと」
お姉さんの顔を見てどういう表情になっているか察したくないので、顔を背けて手を取る。
まさかこんなに動揺するなんて。想像すらしていなかったから。
「歩こっか」
うなずく。
ちょうど建物の中に入るところだったので、ムードどころではなく繋いだまま中へ。熱気がすごい。湿気が充満して建物の外より蒸している。
建物の中は余計なものがすべて取り払われたホールに事務机がずらりと並び、その上に薄い本や小物のようなものが乗っている。そして、それが見えないくらいにとにかく人が歩いている。
わたしたちもその波に乗らずをえず、ホールを流されていく。
「スラダンかー」
カタログをちらっと眺めたお姉さんが言ったように、机の上に置かれた本や、スーパーの広告みたいに目立つように立てられたイラストには、バスケのキャラの絵が並んでいる。しかし、わたしは読んだことがないので、作品そのものへの関心は少ない。
だが、そこに並べられている本やイラストへの力の入れ具合は、大勢の体温と夏の暑さが混じった幻想かもしれないが、気迫のようなものを感じる。
「一通り回ってこ」
言われるがままに、人の流れに乗ってホールの外周を歩き、適当なところで外に出て、隣の建物に入る。
「こっちはるろ剣とか他のジャンプのとか、ロミオの青い空なんかのアニメかな」
ちょっとは知ってる名前が出てきた。日曜日にちらっと観ていたことはある。他のアニメも、お姉さんが観てたビデオを横目で眺めていたりして、知らないことはない。
だから机が並んでいる列の方へ向かい、それを眺めてみる。
同人誌は登場キャラが作品に出ていない時の姿を描いたり、友情や愛情を描いたものが多いと聞いていたが、なるほど。と納得できる雰囲気だ。
「若い子にはちょっと刺激が強いのもあるかなー」
「そういうのもあるような」
愛情。というからには当然、それを実践するシーンもある。キスや抱き合うくらいならわたしでも見て大丈夫だろうと曖昧な結論を出し、眺めながら次々と見ていく。たまに見ていってくださいなどと声をかけられるので、曖昧に返事もする。
買ってほしい期待や情熱を感じながらそこから離れるのは心苦しいが、元の作品をよく知らないものを買うのも失礼だと思い、離れる。
お姉さんも冷やかしだけで、買ってはないようだ。
レストランが入っている建物を横にして歩いていると、アニメの仮装をしている人がいる。コスプレというらしい。それを見ながら端の建物に入ると、こちらもアニメ関係が並んでいた。
そこも一通り大きな通路を回り、壁際の人が動いてないところで少し休む。
「どーだった?」
「人が多くて。それに、わたしがよく知ってる作品でもなかったので」
ちょっと口ごもる。お祭りの熱気は伝わったが、そこで何がなされているかはまだピンとこない。
「それもそーだよねー。あたしもアニメは見てるけどーってやつが多かったし」
汗をタオルでさっと拭ったお姉さんは、何か考えてるようだ。
「じゃ、今日のとこはこれで撤退する? カタログ買ってさ」
時計を見るともう二時過ぎ。四時終了らしいので、もう帰ろうとしている人も多い。
「じゃあ、そうしましょうか」
「これだけ人数がいるから、多くならないうちに脱出したいしねー。そんで拠点に行かないといけないし」
そうだった。事前のメールなどで来た情報だと、宿は横浜らしい。
「そっちの方は緊張してる?」
「まあ、知らない人ですから」
「あたしが一回会ってる人だから悪い人じゃないと思うよん。多分」
肝心なところをいい加減に言っているが、お姉さんは断言したがらない人なので、おおかた安全な人なんだろう。
「じゃあ、恵比寿で荷物回収だねー」
そう言って帰りの人が出て行ってる出口へ向かう。
途中にある準備会ブースと言うらしい机に寄り、コミケの参加サークルや地図が掲載されているらしいカタログを買う。千三百円だった。
その後、午後の日射しにあぶられながら晴海通りを歩いて勝鬨橋を渡る。
お互い暑さに負けつつあり、言葉少なだ。
「そーいえばさ、東京名物」
朝のハンバーガーショップでそんな話をした。
「築地のお寿司ってどうかな。寿司屋とか多いみたいだし、よくない?」
「値段、大丈夫ですか」
「まー、帰り道をちょっと曲がるくらいなんで、見てから決めるってことで」
そんなに駅から離れてないなら、見てから決めればいい。軽い気持ちで築地市場へ向かうわたしたち。広大な空間が外界と仕切られていて、その道路沿いに店がひしめく場所がある。学校の近くにある古い商店街とも似ている。
しかし、ほとんどが昼は二時、三時に終わるみたいで、開いている店が少ない。
そして、開いている店を見つけても。
「いやー、高いねー」
「はい」
「こりゃ学生には辛いよー。ごめん」
お昼にちょっと食べるには高すぎた。わたしたちは背伸びをしすぎたみたいだ。
「我慢できない。飲み物買うから待ってて」
「あっ。わたしも」
市場でがっかりしたわたしたちは、築地駅に戻る道すがら飲み物を買う。コミケの会場にも売店や露店は来ていたが、人が多くて行く気も起きなかったので、ようやく水分を採ったことになる。
「はー。明日はペットボトル持ってかないと」
人心地ついたお姉さんが教訓を述べる。
もうしばらく歩いて駅が見えたとき、お姉さんが腕時計を見て口を開く。
「うーん。中途半端に時間があるなー」
「六時でしたっけ」
「そ。保土ケ谷だから、恵比寿から一時間もしないはず」
あと二時間ほどある。
「渋谷とか原宿とか行ってみる? 若者って感じの」
「自分も若者じゃないですか」
「ええー。でもガラじゃないしー」
「それならわたしも同じですよ」
実際、わたしは芸能とかファッションにうとい。そこまで関心がないともいう。
かといってお姉さんのように、別の趣味に興味が向かっているわけでもない。
小説や漫画も空いた時間を埋めるためのもので、はまる程好きな作品もない。
そういう自分を空虚だとは思わないが、面白くない奴だとは、たまに思う。
「そっか。それならあとはサ店で粘るか。あ、秋葉原行きたかったけど、明日でもいいしなー」
「パソコンの店ですか」
「そーそー。専門店がいっぱいあるの」
瞳を輝かせて解説してくれる。専門店というと、地元でお姉さんに連れて行かれた、パソコン関係の物しか置いてない店か。
「二時間くらいならいいですよ。わたしは特に行きたいとこないですから」
「ほんとにー? じゃあお言葉に甘えよっかな」
嬉しそうな顔で切符売り場に行くお姉さんの後をついて行く。
こういう表情を見るのが、幸せなのだ。
築地から秋葉原までは乗り換えもない。空いていた席へ横並びに座り、しばしくつろぐ。お昼頃からずっと歩いていたので、染み渡るように疲れが癒やされる。
「あっ。もう次だよ」
と思っていたら、ほんの十分程度で秋葉原に着いてしまい、後ろ髪を引かれながら立ち上がって再び歩き出す。
地上に出てしばらく歩くと、突然、激安やビデオ、テレビなど、その壁一面に広告の文字が躍るビルが視界に入った。ここもテレビで見たことがある。店先の様子を見るに電器店らしい。
「びっくりするよねー。あれ」
お姉さんが笑う。そういえば、駅からここに来る時もすんなりこっちに来ていた。
「知ってたんですか」
「去年受験でこっちに来て、ちょっと観光したんだー。結局、地元にしたけど」
どおりで。と納得する。東京に来てここなのも、お姉さんらしい。
「まー、そういうわけでちょっとは君をエスコートできるってわけ」
恥ずかしいことを言うお姉さんに連れられ、ガード下を抜けて秋葉原の街を歩く。
大通りは家電の店という感じの店がよく見える程度だが、小さな通りに入ると、露天のようにむき出しの電気機器や小さな機械が並べられている。こういう怪しさはお姉さんの好きそうなものだ。
そういう小さな店にはゲームショップもあり、その店先をちょっと眺めたりもする。明らかにわたしの住む街のそういう店よりも、並んでいるものに幅がある。
「どこから仕入れんだろうね、こういうの。田舎のおもちゃ屋を探す人らもいるらしいけど」
「そんなに古いんですか」
「この辺はファミコンと、これはカセットビジョンだから十年と少し前くらいかなー」
わたしが生まれた前後だった。そう言われる特に古くもないような気になるので不思議だ。
「表の方にあったスーファミが五年前で、去年サターンとプレステが出たし、この辺のは地方だと見なくなりつつあるねー」
「もう少ないんですか」
「それもあるけど、買う人が少ないから置かなくなっちゃうの」
店の中で大きな声を出すのもはばかられるので、お互いぼそぼそと会話する。少し後ろめたい。
「まあその、秋葉に来ればあるって安心感があるのかな。結構高いけど」
最後のほうは本当にこっそり囁かれる。何度かうなずいて返事をする。
となると、ここはお姉さんのような人にとっては、安心できる街ということなんだろうか。
一通り見終わり、外に出る。弱いながらもエアコンがついていた店の中から出たせいか、暑さがのしかかってくる。
そしてまた歩き出す。セガのゲームセンターがある通りを渡ってしばらく歩くと、お姉さんがこっちを振り向き、わたしの肩越しに来た道を見つめる。
「あれ。こっちだったかな」
そう言ってまた道の先を見て、またこっちを見る。
「迷いましたか」
「どーだろ。だいたいこの辺だと思うけど」
そう言いながらバッグからくしゃくしゃの地図を取り出して確認する。まさにおのぼりさんという状況になったので、わたしはなんとなく周囲を警戒するが、道行く人々はわたしたちふたりの事など眼中にない様子で行き交っている。
「ごめん、覚え間違ってた。もうちょっと向こうだった」
そう言って歩き出す彼女についてしばらく道を戻り、曲がってどんどん先へ行く。またごちゃっとした印象の店が多くなってきた。
「ついたよー。ここここ」
薄暗い店の中にはぎっしりと箱状の機械、パソコンの本体が積み重ねられていた。その間を人が行き来している。
「パソコンショップですか」
「中古のね」
値札を見ると、ほとんどが数万円の範囲内だった。家電店で売られているのとは桁がひとつ違う。
「や、安いですね」
「本体だけだからねー。使うならモニタも買わないといけないし」
パソコンはテレビには繋がらないので、それも買うとしたら十万円前後になるんだろうか。
「うちにはもうモニタがあるからさ、もう一台買うとしたらどんな感じかなって」
「なるほど。そういえば、わたしが買えそうなのってありますか」
今まであまり訊ねる機会がなかったので、思い切って訊いてみる。パソコン通信をするにしても、お姉さんの家に行って交代してもらってなので、自分のがあるならとは常々思っていた。
「ちょっとゲームして通信するならまあ五万くらいからだけど、ゲーム機買う方が安いよ? モノを選ばなければもっと安くなるけど快適さがガタ落ちするし」
だいたいの相場感覚はわかった。その後、パソコンは上も下も振れ幅が結構あり、とりあえず動くのと、快適に使えるの間にはとても深くて広い溝がある。というようなことも言われた。
「あとは、部屋に置くスペースかなー。あたしの部屋でも一式でかいっしょ」
そう言われると、わたしの机にはちょっと大きすぎる。特に本体、モニタとキーボードを並べたら奥行きがかなりある。
「色々と難しいですね」
「そーねー。それに秋ぐらいにウィンドウズの新バージョンも出るし」
分からない言葉が出てくる。
「うぃんどうず。ですか」
「ソフトを動かすためのソフトってーか、規格が更新されるのー。今マルチメディアとか言ってるのを、もっと推し進めるやつにね」
そう言われてもぴんとこないが、マルチメディアというCMのフレーズは聞いたことがある。
「音楽とか映像をパソコンでいじらせて一般化させたいんだろーけど、あたしゃ懐疑的かなー。そもそもの性能が足りないもん」
珍しくはにかんだ笑みを浮かべ、彼女は続ける。
「それに、あんまり広まっても、秘密の遊び場が荒らされるみたいな気持ちがあるわけよ」
遠くを見つめる目で語る。誰も知らない場所を守りたい独占欲。わたしがお姉さんに対して思っているようなものを、お姉さんはコンピュータに抱いているのだろうか。
「今、いい顔してますよ」
「えへー。そう?」
「恋する乙女って感じです」
ちょっと妬けたので、からかってやる。
「恋かー」
意外にも素直な反応。
「近いもんかもね。あたしも初めて出会った時の君みたいな頃があってさ」
お姉さんと初めて会った頃、わたしは家にいると居心地が悪く、学校にも閉塞を感じていた。それを彼女が何も言わず、いてもいい場所をくれた。
「あたしの場合、じーちゃんの家とかもあったし、君ほどじゃなかったかもしんないけど、まあ、ひとりで居られる場所って要るからね」
うなずいて同意を示し、すれ違う人に道を譲り、またふたりでパソコンを触ったり、値札を見ながらぼそぼそと話す。
普通、こういう話は喫茶店とかでやるんじゃないだろうかと考えながらも、こういうのもわたしたちらしいと思う。
「何かを書いたり、作ったり。ゲームしたり。まーあとはネットか。だいたい遊んでばっかだけど、そういう没頭できることがあってちょっとは助かったわけ」
話し終わり、ふう。と息を吐いたのが印象的だ。辛いことを話させてしまったんじゃないかと気になるが、それ以上追求する雰囲気でもない。
そのままゆっくり歩みを進め、出入口近くに来たところで、ごまかすかのようにお姉さんは言った。
「小さいのがいいなら、ノーパソもありかな。ゲームはかなり厳しめだけど、通信くらいなら」
ノーパソとはノートパソコンのことらしい。大きめの教科書から、美術の授業で使うスケッチブックを少し小さくしたような物までが何種類か並んでいる。
「へえ」
「もろもろのコストもデスクトップよりかさむけど、それでも場所とか色々条件があるとねー」
ふたりで色々と見ながらそんなことを話し、店を出る。
「買わないんですか」
「んー。まあ見るだけ。ごめんね」
拍子抜けするが、安い買い物ではないし、お姉さんの色々な顔が見えたのでよしとする。
その後も何軒か店を回る。ビルの数フロアに入っている店や、裏路地のような場所。どこもよくわからない怪しさを放っていた。
結局、店を回るだけで何も買わずに駅まで戻ってきてしまった。時計を確認すると、五時少し前くらい。
「なんとか間に合うかな」
来た方向に山手線で戻る。戻るといっても、土地勘がないのでどちらに進んでいるかはわからない。電車に乗った時は座れたが、会社の終業とぶつかったみたいで、少し人が増えてきた。
「人、増えてますね」
「ねー」
恵比寿駅に着いてコインロッカーに預けていた荷物を取り出すと、次は別のホームで電車を待つ。
「これに乗れば乗り換えなくていいから助かったー」
見知らぬ土地で電車に乗るのはどこに行かされるか不安になるので、お姉さんみたいに案内してくれる人がいて、さらに乗り換えもないなら大助かりだ。
立ったままは少し辛いが、三十分くらいで横浜に着く。そしてその次が保土ヶ谷駅だったので少し驚いた。
スーツケースを抱えて電車を降りると、ローカル線というか、住宅地の近くに出てきた感じがする。
ホームから下の階へ行き、改札へ近づく。今までの駅とは違って改札も出口もひとつしかないので、迷いようがない。
ここに、今日泊めてくれる家の主が来ていると考えると、無意味に緊張してしまう。
既にパソコン通信では何度かやり取りをしている間柄なのだが。
横を見ると、お姉さんも顔がこわばっていた。
「緊張してるんですか」
「そりゃするよ」
「初対面じゃないって言ってたじゃないですか」
「そりゃ去年会ったけど。会ったけど、ネットの人にオフで会うのは緊張するの」
照れくさそうにぼやくお姉さんもかわいいが、緊張する。
オフとは、オフライン。つまり回線での通信意外で、という意味らしい。
そんな事情もあって極端に歩みが遅くなっていたわたしたちだが、無慈悲にも改札はやってくる。
「や。ヒダカちゃんと、そっちがゼロワンさん?」
先手を取られた。というか、先方はヒダカさんことお姉さんの顔はわかってるし、いかにも旅行客の姿をしているふたり組なので、ごまかしようもないのだが。
そもそも、逃げ隠れするような話じゃない。
声がした方には、髪をショートボブにした人がいた。背丈がわたしと同じか少し低いくらいなせいか、くりっとした感じが強く出ている。そして黒地に蛍光グリーンの血飛沫がかかったようなTシャツ。お姉さんの関係者はみんなこんなTシャツが好きなんだろうかと少し疑いを持つ。下は普通のジーンズにスリッパ。散歩の人みたいだ。
「初めまして。ゼロワンです」
お辞儀をする。しかし、初めてやってみてわかるが、この名前を自分で名乗るのは少し恥ずかしい。
パソコン通信を始めるとき、本名じゃない自分で名乗るハンドルネームが要ると言われたので、本名を色々といじって決められなかったところを、お姉さんに手伝ってもらって決めたものだ。その時お姉さんは、特撮がどうのとも言っていた。
「ハジメマシテ。ひだかデス」
「それこの前もやったでしょ。ちょっと背伸びた?」
ぎこちなく挨拶をしているお姉さん。わたしと最初に遭遇した時はずけずけと踏み込んでくるくらい神経の太い人かと思ったら、今日はこんなに緊張しているのがとても意外に感じられる。
「緊張してんの」
そんな柄ではなさそうなのに。また解らないことが増えた。
「相変わらず。ゼロワンさんはメールで言ってたけど中学生?」
「はい。お姉さ、ヒダカさんの」
ちょっと言葉に詰まる。やはりここは友達と言うのが無難か。
「友達です」
「えー。他人行儀ー。いつもあんなに愛してくれてるのにー」
お姉さんが横から入ってきて口を尖らす。さっきまでおどおどしていたのに、謎だ。
そして、そんなことを言われたわたしは何と言っていいかわからなくなり、焦る。
「困らせない困らせない。まあヒダカちゃんの後輩でしょ」
「そうでーす」
まだ焦っていて口を開けそうにないので、うなずいて返事をする。
「で、私はニルです」
迎えに来てくれたニルさんも名乗り、お辞儀をする。
掲示板でのやり取りや、旅行することに決まってからのメールなど、ネットでは結構話をしているのに、実際顔を合わせるのは初めての人が前にいると、意識が宙に浮くような感覚になる。
いつも話しているのがお姉さんの部屋のモニタ越し、文字越しなので、場所が違う上に、声で会話している二重のギャップがあるせいかもしれない。
「これから三日よろしく。ところで、食事してる?」
「ごめん。秋葉寄ってたら食べ損ねちゃった」
ニルさんは的確に今のわたしたちに必要なものを当ててきた。
「夜はまだですね」
夏なのでまだ明るいし、食事をする暇もなかったから、なんとなくそのまま来てしまったが、迷惑ではないだろうか。
「帰り道に中華屋があるけど、食事時だしスーパーで色々買ってうちで食べる?」
「そーねー。待つよりは弁当とかで済ませようか」
「ですね」
なんとなく話がまとまる。駅のすぐそばにあるスーパーでお弁当とお惣菜、お菓子などをまとめて買う。お金は後で割り勘になった。
「コミケ、どうだった?」
「初めて行ったけど、すごかったねー。暑いし人多いし」
「予想以上でしたね」
昼間の感想を話しながら、ニルさんが先導して道を歩く。
駅の近くを離れたら、住宅が多い。所々に木立があり、緑も見える。
メールなどで横浜の次の駅と知らされていたので、もう少し都会っぽい場所を想像していた。
「はい到着」
ニルさんの家は、住宅地の一角にある一戸建てだった。ということは、家族もいるのだろうか。少し緊張する。
玄関を入ったところに、ちょっと広い空間があり、奥に階段。その右側にある部屋には流し台とコンロが見えるので、キッチンみたいだ。荷物を持った三人は玄関に入りきれないので、順番に入る。
「スーツケースどうする? ここまで転がしてきたけど」
「そこの新聞敷いて上に置いて」
「りょーかい」
「はい」
荷物を階段の脇に置き、ようやく身軽になれた。
その間にニルさんはキッチンの明かりをつけ、窓を開けて扇風機をつけ、さっき買った夕食を並べ始めたので、わたしたちもそちらへ。
「それじゃあ、実は私も行ってたんだけど、コミケ初日お疲れ様」
ニルさんがそう言うと、なんとなく食事が始まる。並べられているのはスーパーのお弁当とお惣菜だが、打ち上げみたいだ。
「まー、あれじゃ会えるわけないよね」
お姉さんはそう言って笑いながらお茶で喉を潤している。
「すごい人出でしたからね」
「無線機使う剛の者もいるらしいけど、普通はねえ」
唐揚げをかじりながらニルさんが言ったことに驚く。そこまでする人がいるのか。
「まー極端な人らだよねー、それ。あたしら一般人ですから」
お姉さんは一般かどうか怪しいが、藪蛇になりそうなので言わない。
「で、何か買ったの?」
ニルさんに言われるが、ふたりで顔を見合わせる。
「カタログだけです」
「今日は社会見学だからさー」
そう言ったら、ニルさんはぷっと笑った。
「ごめん。いや、わざわざあんな所に行ってカタログ買うだけとか物好きね」
それはその通りである。
「通販で二人分買い忘れちゃってたんだよー。この子も持ってるほうがチェックしやすいでしょ」
あらかじめカタログを読み、興味のあるサークルをチェックするものだと、旅行前に聞いている。それならひとり一冊持っている方がいい。
その後はネットのことや、コミケの日程について色々と話をした。ニルさんが出るのは三日目の同人ソフト。新館の二階なので、今日わたしたちが最初に入った建物の上のフロアになる。
「私のとこ個人サークルだし、売り子手伝ってくれるならみんなで入る?」
「助かるー。あたしはいいけど、君は大丈夫?」
「サークルってのは売る側ね。会場へ先に入れるから、手伝ってくれるならみんなで行こうかって話。早起きになるけどね」
わたしがきょとんとしていると、ニルさんが助け船を出してくれた。そういう制度があるなら、利用させてもらおう。
「大丈夫です。物を売った経験はないですが」
力になれるかはわからないのが心配だ。
「トイレとか買い物の時、誰かいてくれるだけでも助かるのよ。いつもひとりだから、どうせ人が来ないと思ってても出づらくてね」
それなら大丈夫かもしれない。
「売り物はー? 昨日の書き込みでも怪しそうなこと言っちゃって」
「あれから徹夜でなんとかしたよ。あとはどれだけ作れるかってとこ」
「デュプり地獄かー。手伝えることあったら言って」
デュプる。というのは、デュプリケーションのこと。完成したファイルをディスクにコピーする作業だと、ネットの書き込みで見た。
「そっちは作れた分だけでいいから大丈夫」
ニルさんはそう言って椅子から立つ。
「今日は暑かったでしょ。お風呂入れてくる」
念のため昨日家を出る前に入ったが、一日飛ばしたようにも感じられる。そう考えると、変な臭いになってないか少し心配だ。
「あー、ありがとー」
部屋の外に向けてお礼を言ったお姉さんは、にやにやしてこちらを向く。
「一緒に入る?」
「入りません」
かっと顔に血が上った感じがする。そういうのにはまだ早いというか、刺激が強いというか。そもそもムードも何もない。馬鹿。
すぐにニルさんも戻ってきて、言う。
「で、ふたり一緒に入るの?」
「入らないよー」
「入りません」
元に戻りかけたわたしの顔がまた赤くなった気がした。
結局、わたしが最初、お姉さん、ニルさんの順番でお風呂に入る。そして部屋着に着替えると、すっきりとした気分になる。
「生き返ったー」
扇風機に当たりながら、お姉さん。いつものことだが、この人は結構老けたもの言いをする。
「暑いでしょ。上はクーラーあるから」
ニルさんに促され、わたしたちは階段を上る。上がってすぐのところに家具を入れてない小さな部屋があり、その向こうはパソコンと本棚、そしてベッドにタンスと、生活のほとんどが詰め込まれているような部屋になっていた。
エアコンはつけっぱなしになっていたようで、ひんやりと心地よい。
小さい方の部屋に入ったところで、足元ににゃあという声。
「おー、グーだ」
お姉さんが手を出すと、グーと呼ばれた白黒のぶち猫は顔をこすりつける。ニルさんは飼い猫のについても書き込みをしていたので、知ってはいるが猫とも初対面だ。
「この子はいつも書いてるグー」
ニルさんが紹介をしてくれる。わたしも手を出すと、顔をこすりつけてくる。人慣れしている。
「二階も適当に来ていいよ。PC見たり使ったりしたいときは声かけて」
「そーいや、タバコ吸うのは?」
「猫がいるし私は吸わないから外でお願い」
「はーい」
お姉さんが喫煙者なことについては特にツッコミがないので、わたしも余計なことは言わないでおく。
「寝るのは、ちょっと手狭だけどエアコンに当たりたいなら二階になるから」
押し入れから薄手のマットレスが二組出される。何から何まで準備されているようで少し悪い気もする。
雑談をしつつ明日のサークルを見ると、小説の他にも、少女漫画、芸能全般もある。
「JUNEって何ですか」
「ジュネって読むの。やおいって言ってわかるかな」
「男と男の恋愛みたいなー」
わたしが質問すると、雑談していたふたりから説明が返ってくる。そういうジャンルの雑誌があって、それがジャンル名になっているらしい。
結局、カタログをつまみ読みし、いつも読んでる小説のサークルもあることを確認するとそこをメモするくらいで、気がつけば十時を過ぎていた。
「そろそろ作業するわ」
「じゃー、あたしはヤニ吸いに」
お姉さんは外に出て行った。わたしもなんとなく、その後を追う。
玄関先で空き缶を灰皿にタバコを吸っているお姉さんの横にわたしはしゃがむ。
「休んでなくていいの?」
首を振る。あなたの隣にいる方が安らぐと、この人は知っているのだろうか。
「あたし、苦手なんだよね。人と話すの」
しばしの沈黙の後、お姉さんが口を開く。ニルさんと話してる時、少し様子がおかしかったので、なんとなく感じてはいた。
「自分から言いたいこととかあまり無いし、挨拶くらいして終わりってーか」
「わたしと初対面の時はものすごく喋ってましたよ」
「うん。自分でも不思議」
空中に煙がたなびく。
「同類と思っちゃったのかなー。それとも、一目惚れ?」
昼間の話も合わせると、お姉さんはわたしに過去の自分と似たものを感じたのかも。
「どっちでもいいですよ」
タバコが空き缶の上でくしゃっと潰れ、そのまま飲み口へ落ちる。
「ありがと」
お姉さんの両腕がわたしの肩に回った。タバコの匂いに、お姉さんの匂いも混じる。
「どうしたんですか、いきなり」
「なんかさー。改めてあたしの中で君の存在が大きかった」
面と向かって言われると少し恥ずかしいが、やっぱり嬉しい。
「帰るまでエスコート、お願いします」
「へーい。それじゃ、そろそろ戻ろうか」
ふたり腰を上げ、家の中へ戻る。今日はまだ一日目、旅は始まったばかりだ。