結局、喫茶店では無難な質問しかできなかった。どこの大学に通ってるとか、どの辺りに住んでいるのか、とかだ。
何でも訊いてよと言われた割には、何も訊いていない気もする。しかし、あのお姉さんとわたしでは、前提が違いすぎて話の手懸かりになることが少なかったのだ。
そう思って釈然としない悔しさを紛らわす。
それでも、学校の話は彼女がわたしの通う学校の卒業生ということもあり、少しは間が持った。それによると、どうやら近くにある国立大の理工学部に進学したらしい。
うちの学校は進学する生徒が多いが、そんな中でも理工学部は結構珍しい。だから、噂好きなクラスメイトや進学について詳しい先生に訊ねれば、何か話が聞けるかもしれない。もっとも、それで何事か詮索されるのは嫌なので、胸に留めるだけだが。
そして、趣味はゲームとハッキング。
「ハッキング、って犯罪じゃないですか」
詳しくないが、コンピュータ犯罪をそう呼ぶらしいことを知っていた。
「んーん。元の意味ではマニアックなコンピュータいじりのことなんだな。ま、あたしがやってることなんてたかが知れてるから、格好つけなんだけど」
ちょっと顔に赤みがさしたように見えた。照れているのか。
それからお姉さんは、やや渋い顔になってコンピュータ犯罪のことはクラッキングだよねー。とか、言葉の意味は変わるからなー。などと少し寂しそうにぶつぶつ呟いていた。
やっぱり変な人だ。
そう思うと、少し笑えた。
「よかった。いきなり涙目になられたときはどうしようかと思っちゃった」
表情の変化を見られたのがなぜか恥ずかしく、顔が熱くなってしまう。
「せっかくのデートだもん。泣かれちゃ困るからなー」
「馬鹿なこと言わないでください」
「ちぇー」
妙に子どもっぽいところがあるのも、発見だったかもしれない。
「にしても、空は晴れてるってのに」
喫茶店を出て、猫のように伸びながらお姉さんは言う。
「湿っぽいねー」
確かに。
「そろそろ、梅雨ですから」
一週間ほど後に、梅雨入りを伝えるニュースを聞いた。
朝夜は少し肌寒さもあるというのに、昼間は蒸すし、結構暑くなる。衣替えも進み、わたしも夏服に替えた。ベースがクリームで、アクセントにモスグリーン。ちょうど冬服と逆の色合いになっている。
暦の上では特段イベントがなく、学校行事も少ない六月も、わたしの中学生生活は平穏に続いていた。無難に勉強をこなし、友達づきあいもきちんとする。
そして、何日かおきにお姉さんへ電話をするのも習慣になってきた。
何か目的があるわけでもない。お互い話題を探して長く沈黙することも珍しくない、とりとめない数十分程度の会話。だが、それは確実にそれまでの生活にはなかった、新しいものだった。
「あ、そーそー。日曜に駅前まで出るけど、どっか遊びに行かない?」
六月半ばの金曜夜、唐突にそう切り出された。
「いいですよ。またお昼ですか」
わたしたちの関係はいつもそうだ。わたしもお姉さんも、お互い好きなことを言い合っている。ような、気がする。
こうやって逢う約束をするのも、これまで何度かあった。
そして、ハンバーガーショップや喫茶店で話をしたり、ゲームセンターに行ったりするのだ。
とはいえ、校外での関係をあまり友達には知られたくない後ろめたさがわたしにはあるので、初めて遭遇したゲームセンターにはあまり行ってない。寮生の子が商店街にいそうだからだ。
そういうことはきちんと言ってはいないが、お姉さんは結構気を遣ってくれているのだろう。
そういう考えがいつも心の底にあって、それが若干負い目になっているのだけれど。
「ううん。どうかなー」
多分、わたしの考えすぎだろうと、この気の抜けた声を聞くと思ってしまう。
「悪いけど、十時頃で頼める?」
「わかりました。じゃあ、明後日に」
「んじゃーね。明日も学校あるからちゃんと寝なよ」
あたしはこれから通信だけど。そう笑い、お姉さんからの電話は切れた。
翌日の学校も特に何もなく、放課後は友達と過ごす。帰宅したら両親と食事をとり、お風呂に入って寝る。いつも通りだ。
そして、日曜日がやってきた。
普段着のブラウスにジーンズをはき、デイパックの中には文庫本。この前デートとやらに連れ出されたときは読まなかったし、今日もそうかもしれないけれど、一応。
いつも学校に行くよりは遅い時間帯なので、余裕である。
電車で数分。学校の最寄り駅に着く。そういえば、この前の話で聞いたお姉さんの家は、わたしの学校からあまり遠くないところだった。彼女が待ち合わせにこの駅を使うのも納得でき、わたしに気を遣っているわけではないとわかったので気が楽だ。
そんな自意識が過ぎたことを考えつつ、今日はわたしが先に来たので、ぼんやりと壁際で人波を眺めながら人を待つ。
「やー」
十分くらいでお姉さんもやって来る。いつも通り気の抜けたふにゃっとした声で、着古したTシャツにカーディガンを羽織り、年季の入ったジーンズ。そして、煙草の香り。
「待たせちゃった? 悪いねえ」
「十分くらいですよ」
「そっかー、じゃ行こっか」
今日のはなくなるかもしれないからとか何とか続けながら、お姉さんは改札を離れて駅ビルから出ると、勝手知ったるといった感じで駅前通りを進む。
彼女は重心が安定しないような動き方をしているのに、不思議と歩みに速さがある。最初は戸惑っていたが、最近は割と慣れてきた。
「ついて来れてる?」
「あ、はい」
お姉さんのほうも連れと一緒に歩くことを気にするようになったのか、最近はたまに後ろを振り向き確認してくる。
手を繋ぐのはやめてほしいと言ったらこうなったので、意外と合わせてくれる人なんだと少し驚いた。そのときに恥ずかしいんだなどと囁いてきたので、わたしは少し根に持っているが。
お姉さんは一見忘れてそうだけれど、約二ヶ月のつきあいから考えると、この人は割と鋭いし、いろいろ覚えている。だから、あまり藪はつつかないことにした。
恥ずかしいのはわたしだからだ。
そんなことを考えながらも、あの角を曲がり、この路地を入っていく。
そして今日も、以前とは違う雑居ビルの三階へやって来た。
このお姉さんが行く先はだいたいコンピュータかゲーム関係のショップだ。この辺にはそこそこ固まっているらしい。だから今日もそんなところだろう。
階段を上ったところにあったガラス扉の向こうにはいくつかの人影がある。
いつもふたりで行く店は閑散としているところが多いのだが、今日は違うみたいだ。
「先客来てるかー。まだあるかな」
「今日は何の店なんですか」
お姉さんはいつもわたしに何も言わず、自分だけでさっと用事を済ませてしまう。だから、今日は訊くことにしてみた。
「んー、おもちゃ屋?」
そう言いながらお姉さんが開けた扉の向こうに並んでいたのは、銃。と、箱、箱、そしてまた箱。といった感じの光景だった。かなり刺激的。いや、強烈だ。
「おもちゃですか」
「そー、おもちゃ。あれはエアガン。本物じゃないから」
わたしがちょっと固まってしまったので、お姉さんがフォローする。本物だったら大問題である。
ぱっと見た感じ、所狭しと箱が積まれ、その間に人が分け入っているという感じだ。
お姉さんは時々別の通路に入ったりして人を避けつつ進む。箱は書かれていることを拾い読むに、模型らしい。そして、それを前に物色している人たち
奥にはカウンタとレジがあり、初老といっていい白髪の男の人が座っていた。その奥にも棚と箱がひしめいている。
お姉さんが軽く会釈したので、わたしもぺこりと頭を下げる。このお姉さんは妙に礼儀正しい。個人経営のような店へよく行くからかもしれないが、そんなことはないファストフードでも挨拶をするので、性分かもしれない。
お姉さんはそのままふたりほど話し込んでいる先客がいたカウンタ前のワゴンへ。ここでもお互い知り合いなのか、ども、などと言い合って会釈しあっている。先にいた人たちが横へずれると、わたしにもそこが見えた。エアガンでもプラモでもなく、煙草くらいの大きさをした箱と、ビニールか何かのパックが並んでいる。『お一人様二つずつまで』の注意書きつきで。
お姉さんはそこからいくつか取ると、レジへ。五千円くらい払っていた。中学生にとっては結構な額だが、大学生にとってはどうなんだろう。
お姉さんは飾り気のない白いビニール袋に入った商品を受け取ると、それを見ていたわたしに顎と目線で合図を送る。
もう出る。ということだ。
お姉さんはこれから行く店が何なのか、何を買ったか、それが何をするためのものなのかをあまり語らない。わたしが訊ねると、パソコンで遊ぶゲームだよ、みたいに曖昧な答えを返すが、わたしもあまり食いついていかないので、だいたいそこで話は途切れる。
お姉さん曰く、食いついてきたときだけ語ればいい。ということだが。
じゃあ、なんでお姉さんはわたしと一緒に買い物をするのだろう。
ビルの階段を下りながらそんなことを考える。
わたしと逢うための口実にしては本当に必要そうな、真剣な顔で買い物をしている。だいいち、コンピュータショップやゲームショップなど、あまり女の子受けしない店ばかりだ。
失礼だが、友達は少なそうだ。性格にはかなり難、もとい癖がある。うえに、趣味が趣味だから学校のような閉じた環境では大変だろう。わたしのように無難なひとりとして埋没するか、あるいは孤独なひとりになるか。
正直いって、埋没しているお姉さんは想像しがたい。わたしに接してくれるときのように、飄々とした存在でいてほしいと願うのは、惚れた欲目なんだろうか。
あるいは、これで割と奥手で、わたしを趣味の世界に誘っているつもりなのか。
そんなことを考えながら、お姉さんの髪に隠れたうなじを追って外へ出る。
「お疲れ。それじゃどっか行こっか」
ん、と伸びをしながらお姉さんがこちらを向く。
「つっても、今月は金欠だから、どこでも、とは言えないけど。座れるとこ行こ」
ビニール袋をちょっと差し上げてそう続けると、あの曖昧な笑みを見せる。大学生でも、一度に五千円は辛いのだろう。少なくともこの人にとっては。
「そういえば、わたしを連れてきたのはたくさん買うためなんですか」
お金のことをほのめかされたため、『お一人様二つずつまで』の張り紙を思い出し、質問する。意外とフェアな人なんだなと感心したのだ。
「いやー、そこまで意地汚くはないよ。君やらないでしょ、これ」
うりゃ。と言ってビニール袋をわたしの鼻先まで近づける。その隙間から、楕円に英語のロゴマークが入っているパッケージが見える。何なんだろう。
「英語、ですね」
「うん。まだ日本語で出てないからね。でも、これはくるよ」
「何なんですか、これ」
「ゲームだよー」
お姉さんが珍しく、笑ったことがわかるくらいにんまりと笑う。こうなったときは、かなり乗ってきているときだ。
「パソコンのですか。それともゲーム機の」
ゲーム。といわれたらそれくらいしか思い浮かばなかったが、目の前にあるこれはそのどちらとも異なっているように見える。だが、空振りとはわかっていても、応えないと答えはない。
「どっちでもないんだな、これが。」
そう言ったまでは、お姉さんもそこで曖昧な顔を固めてしまった。
「どうしたんですか」
「いや。よく考えたらこれをなんと言っていいかわからなくてねー」
何かお姉さんにとっては難解な質問をしてしまったようで、ううんううんと唸りだしてしまった。
「一種のトランプみたいな、カードで遊ぶゲームなんだけど、パックに何が入ってるかわかんないんだよね。んだから、買って、集めないといけない」
お姉さんが悩むのもわかる。何を言ってるのかよくわからない。
そもそも、買ってそのまま遊べないのは何か違う気がする。
「不良品じゃないですか」
「割とそう言われる」
否定されなかった。
「だけどなー、限られた戦力でしか戦えない。ってのが、リアリティあるっていうか、制限があるほど燃える。みたいなところがあるのさー」
ああ。何かがわたしの中でひっかかった。
「不完全な状態から、ゲームを始めるんですか」
「そうそう。最初なんか何がどれだけ入ってるかもよくわかんなくて。それをパソ通なんかで埋めてくわけ」
それは、わかる気がする。
お姉さんが買ったこのゲームは、誰かと話がしたくなるゲームなんだ。
学校で昨日のテレビや試験の点数が話題になるように。現に、今、こんな風に。
「話をするための道具。でもあるんですね」
なんとなく口にしただけだが、お姉さんがはっとした顔をしてこちらを見る。
「それだ」
どうやら図星をつけたようで、少し嬉しい。
「そうなんだよなー。不完全だから話のネタにしやすいゲームなの。買ってるだけで探検してるみたいな気分になるしさー」
随分ご執心のようだ。ひょっとして。
「今月は金欠って」
「そ、これ買っててちょっとね。購入制限かかってるのにすぐ売り切れるからさー」
そんなに人気なのか。普段の行動範囲とはまったく交わらない場所で起こっている何かが漏れてくるのも、このお姉さんとつきあい出してからの楽しみかもしれない。
行き違うだけだから、鬱陶しくなくていい。
わたしにとって、お姉さんは世界の広さを示唆してくれる人なのである。
それはそれとして、ビルの前で延々喋っているのも具合が悪い。
「どこ、行きましょうか」
「どうしよっか。まだ昼前だけど駅前で暇潰す?」
腕時計を見ながらお姉さんが訊いてくる。わたしもつられて自分のを見てみると、確かにまだ十一時をちょっと過ぎたくらいで、お昼というには早い。
「君さえよければさー。うち来る?」
少し驚く。相変わらず、急に距離を詰めてくる。
「いいですよ」
ごく自然にそう応じていた。
実は友達の家に行く経験はあまりない。小学生の頃以来だろうか。
でも、今の流れなら悪くない。
「じゃー、バス停行こ」
大通りに出て、バスに乗る。日曜のこの時間帯、郊外行きのバスにそこまで乗客はいないので、すんなり座ることができた。
ふたりがけの席に隣り合って座ると、少し緊張する。友達と乗るときも同じようにしているのに、今は気になってしまう。お互いの体温がわかる距離、近い間合い。
ほのかに煙草の残り香がする。気がする。それくらいの近さ。
窓枠に肘をついて窓の外を眺めているお姉さんに合わせ、わたしもなんとなく窓の外へ目をやる。今はちょうど彼女と初めて出逢ったゲームセンターのある商店街だ。そこからわたしの学校と図書館の前を通り過ぎ、もう少し進む。
「次で降りるよー」
そう言ってボタンを押してから、お姉さんははっとしてこっちを向く。
「もしかして、押したかった?」
「いえ」
子どもじゃあるまいし。でも、お姉さんは押したい人に見える。
バス停で降りると、学生街の外れ、建物の間に緑が混じる住宅地に放り出される。わたしの活動範囲である学校からもそう離れていないのに、さっきの商店街とはまた雰囲気が違う、未知の土地だ。
「ちょっと寄り道するから」
「はい」
曲がり角に貼りついているような建物のコンビニに入る。中は少し薄暗く、ひなびた雰囲気だ。レジに学生のバイトっぽい店員さんがひとり、暇そうに立っている。
他にお客もいない店内をお姉さんは行きつ戻りつ、計算しているのか指折りながら飲み物やお菓子などをかごに放り込んでいる。
「五百円。いや、七百円までかなー」
随分厳しそうだ。ペットボトルの飲み物とポテトチップス、チョコ。それにお弁当を追加したら予算オーバーである。
「お菓子、わたしも買ってますから」
ふたりで食べられそうなお菓子をいくつか被っているふうに出し、それとなく助け船を出してみる。
「うーん、君に気を遣わせるわけには」
「この前おごってもらったじゃないですか」
それに、どうせわたしも食べますから。みたいなことを続け、お姉さんにお菓子を諦めてもらおうとする。お姉さんは半ば笑い、もう半分は困ったような微妙な表情で、お菓子を棚に戻してくれた。
お姉さんの気が変わらないうちにとわたしはレジを先に済ませ、一足早く店の外へ。
「はい、お礼ってわけでもないけど」
しばらくすると、お姉さんが出てきて緑色のアイスを半分に割り、片方をこっちに渡してきた。
「あ、ありがとうございます」
陽が高くなり、蒸し暑さも感じ始めた昼前には、爽やかなソーダ味がありがたい。
ふたりでそれを食べながら、無言で歩く。親や先生が見たら眉を顰められそうなことをする背徳感が刺激的だ。
「っと、そこのアパートね」
もうしばらく歩き、お姉さんがアイスの棒で示した木立の向こうには、結構年季の入ったアパートが建っていた。二階建ての、通路が露出しているやつだ。
あのママチャリが繋がれてる部屋がある。お姉さんはその前でポケットに手をやり、鍵を取り出す。
「いらっしゃいませ」
ドアが開く。
「お邪魔します」
ドアを開けているお姉さんにぺこりと一礼し、中へ。足を踏み入れたら、その家にある色々なものが混じった、よその家の香りがした。煙草の他はよくわからないが、お姉さんがいつも身に纏っている香りをさらに強くした感じだ。
入ったところは台所で、そこを隔てて本棚とタンスがある部屋が見える。
「はい、ちょっとごめん」
お姉さんが後から入り、台所の向こうに行くと、こっちを手招きする。
それに招かれて入ってみると、部屋の全体像が目に入った。壁越しで見えなかった本棚の横にはテレビとビデオデッキとゲーム機にテーブル、その向かい側にはデスクトップ型のパソコンが鎮座したデスク。そして、逆の壁際にベッド。
まさに所狭し。だ。ベッドや床の上にも本や書類、よくわからないものが放り出されていて、混沌としている。
「まー、適当にそこ座っててよ。コップ持ってくる」
困惑しながらフローリングの床が見える場所に座ると、お姉さんが台所からコップを持ってきて、コンビニで買ったオレンジジュースを注いでわたしに手渡し、自分の分もコップに注ぐと、それを掲げてこう言った。
「記念すべき我が家初めての来客にかんぱーい」
はいかんぱーいとお姉さんがわたしのコップに自分のコップをぶつけると。カツンと音がした。
「いいんですか」
思わず訊いてしまう。
「ん?」
「わたしが初めてで」
するとお姉さんはふき出してしまった。いつもながら、ちょっと失礼な人だ。
「ごめんごめん、かんぱーいとか言ったけど、特に呼ぶ人もいなかっただけだかんね。ここに住みだしたのも春からだし。シリアスに取らないでいいよ」
初めてだと言われたので少し緊張したが、そう否定されてもそれはそれで釈然としないものがある。
その気持ちごと、オレンジジュースを飲み、アーモンドチョコを開ける。
「食べるならどうぞ」
「お、ありがと」
お姉さんは椅子の上からチョコをひとつ取ってかじりながら、パソコンのスイッチを入れ、駅前で買ったゲームのパッケージを剥き始めた。
「パソコン使うんですか」
「うん、カードのリストがあるんだ」
彼女は慣れた感じで何度かキーを叩きながら、画面とカードを見比べている。
それをまじまじと見るのも気が引けるので半分ほど視界に入れ、チョコをかじり、空のコップにジュースを注ぎながら、部屋の中を見る。本棚、積まれた裸の本や箱、学校のものらしきプリント類、パソコン関係の機械か道具のようなもの、脱ぎっぱなしの服、エトセトラ、エトセトラ。雑然としている。物が多い部屋。
長いことこうしているのも悪い気がするので、文庫本を出して読み始める。まさか、こんなところで役に立つとは。
「ごめんね、暇させちゃって。終わった」
カードの確認が終わったのか、お姉さんがこっちに声をかけてきたので、わたしも文庫本から顔を上げ、彼女の方を向く。
「しかし、なんだなー」
ちょっと申し訳なさそうな感じでお姉さんも床に座りながら言う。
「君が楽しめそうなの、うちにあるかな」
本棚には学校のテキストもそこそこに雑誌や漫画が並び、床にも積まれているが、わたしの知らないものばかりだ。
「何か適当に読む? ゲームは、ひとり用が多いかな。あとは格ゲー」
ゲームは、悪いけどよくわからない。
「いいですよ、気にしないで」
お姉さんはもてなし慣れてないみたいだし、わたしも人の家に行って何をすべきかなどよくわからない。
「しばらく本読んでます」
「そっか。そういやそろそろ一服したいけど、いい?」
肯くと、お姉さんはテーブルの上に置いていた煙草を取り、吸い始めた。
「ねー」
数分経っただろうか、お姉さんが声をかけてきた。
「何ですか」
「いやー、家に誰かいるのも悪くないね」
ふふ、と笑う。
「そうですね。お互い何もしてなくても」
本から顔を上げ、そう応じる。
心地よい。
ひょっとしたら家よりも落ち着くかもしれない。
「悪いけど、弁当も食べるね」
「いいですよ」
煙草を吸い終わったお姉さんは唐揚げ弁当を開けつつ、デスクでパソコンをいじり始めた。 電話をかけるときのような音が鳴り、機械音が響く。
「何」
「あー、ちょっと通信をね」 この前も言っていた、パソコン通信だろう。あんな音がするのか。
「さっき出たカードの交換依頼出すの」
「交換するんですか」
「そ。そして自分好みのセットを作っていくの」 お姉さんがこっちを向いて喋っている間も画面に文字が流れ、短く音が鳴った。
「はい書き込み終わり」
「何も操作してないのにですか」
「うん。そういうツールがあるの。市内で三分十円でもバカになんないし、遠距離はなおさらね」 高いんだわーと笑いながら、またパソコンを何事か操作している。
「こうやってね、回線切って書き込み読むの。昼だしあんまり書き込みなかったけど」
キーを叩きつつ最後に残っていた唐揚げを口に入れ、お姉さんは少し沈黙した。
「楽しそうですね」
屈託なく笑うお姉さんが楽しそうで、可愛くて、こちらの頬も緩んでしまう。
「うん、たのしーよ」
わたしはこんな顔になれるのだろうか。
「ん? あたし何かいいこと言った?」
お姉さんが笑顔のまま不思議そうにこっちを見下ろした。
「え」
「だって君も」
楽しそうだからさ。と言い、床に腰を下ろす。
「お姉さんが楽しそうだったから、わたしも」
「そっかー、ならよかった。あたしだけが楽しんでるわけじゃなくて」
わたしも結構笑っていたようだ。指摘されて気づく。
「あたしはほら、もう大学生だし、通信もあるしで、普段は趣味が同じ人としか接しないからさー。君を家に呼んでもそれから何をすればいいのかわかんなくってさ」
今更ほっとしたような顔をして、そんなことを言われる。
いい加減というか、それで意外と気にしてるというか。
「そういうところ、好きですよ」
言いながら、恥ずかしさを紛らわすためにお姉さんのコップへジュースを注ぐ。
「えへへー、ありがと」
どちらへのありがとうかはこの際気にしない。
「これも開けちゃいましょう」
気恥ずかしさを紛らわすためにポテトチップスを開け、口に運ぶ。顔が熱く、自分でもしどろもどろになっているのがわかる。好きだと言うだけでこんなにも動揺するものなのか。
恋人がいるらしい噂や、いることを公言しているクラスメイトの顔が脳裏を駆け、彼女たちが一気に凄く感じられた。こんなことを日常的にしているのだから。
などと考えていたところで、ふと気づく。わたしにとってお姉さんは何なんだろう、そして、お姉さんにとってわたしは何なんだろう。
頭の中で考えるだけでは詮無いことかもしれない。しかし考えながら、お姉さんにポテトを勧める。
「いやー、悪いね」
「数百円じゃないですか。それに、どうせわたしも食べるんです」
そのことについて訊いてみる気はない。この曖昧さが居心地のよさを形づくっているのだろうから。
ジュースを飲みながら無意識に手を伸ばすと、袋の前で指がぶつかる。指を戻すと、お姉さんも戻す。
ぷっ。とお姉さんがふき出す。
「お先にどうぞ、お嬢様」
「なんですかそれ」
「言葉通りの意味だよー」
そう言ってにいと笑うお姉さんの言葉に甘えてポテトを取る。
いつものようにテーブル越しではなく、膝をつき合わせる距離でこんなことをやるのは、かなり恥ずかしい。
恥ずかしいことばかりだ。嫌ではないけれど。
「しかし、ふたりいると暑いわ。パソもあるし」
指をティッシュで拭いながらお姉さんは窓を開けたが、残念ながらあまり風はない。湿り気と瑞々しい植物の匂いが部屋に入ってくる。
「もうすぐ夏だねー」
「そうですね。夏休みどこか行きますか」
今度はこっちから攻めてやる。
「ん、あたしゃ何の予定もないけど。あってパソ通のオフかゲームの集まりくらいで」
ああ、無自覚なんだ、この人は。だから、わたしが恥ずかしい思いをする。
「わたしと、どこかに、行きませんか。ということです」
お姉さんが口をへの字にして目を丸くした。わたしは彼女をこういう表情にさせたかった。のかもしれない。
「そ、そう言われると、なんとも言えないよ」
何を照れているのだろう。
「だいたい外泊とかはちゃんと親御さんの許可取らないと、誘拐犯になっちゃうし」
そういうことだったのか。夏休みどこかに行くが旅行や外泊と取られるとは。でも、大学生ともなるとそんなものかもしれない。
「別に外泊とか旅行じゃなくって、夏休みにどこか行きませんか。くらいの意味です」
「そっかー、悪い悪い。夏休みだから勝手に旅行か何かかと、ね」
言われてみれば、普段も逢っているのだから、夏休みにと頭につけば旅行や外泊を思い浮かべるのは自然かもしれない。
そして、それは悪くもない提案だった。
「泊まりになるかどうかはともかく、夏休みにどこか行きませんか」
改めて訊ねる。
「そーねえ。考えとく」
意外にもちょっと真面目な顔をしたまま、そう返された。なんとなくふたつ返事で承諾すると踏んでいたのに。
「いやさー。あたしアウトドア苦手なのよ。プールや海ってガラじゃないし」
カーディガンの袖を弄りながら言うのがちょっとかわいい。確かにこのお姉さんが海やプールでいきいきしてる姿は想像しがたい。
「じゃあ、お姉さんの好きなところで」
「んー。でも一日中いたりして君が楽しめるかっつーとさあ。ねえ」
やっぱり結構気を遣う人なんだ。実際、やることだけを済ませて余裕なさげにしている感じがするときも多い。
「いいんですよ。楽しそうにしてるのを見るのも楽しいですから」
「そう言われてもなー」
一応気にはしてるんだよ。と言って口を尖らせる。
「いいじゃないですか。ここでこんな風にしているだけでも」
「えー。それってなんか凄く爛れた感じじゃん。君は仮にも中学生なんだから」
何か変な気の遣われ方だ。
「しかし、夏休みねー。うちは七月末まで授業あるし、八月からだなー」
そうなんだ。だとしたら、結構先の話だった。
「ま、お互い試験もあるし、まだ先でしょ」
それはそうなのだけど。この人は妙なところで年上らしいところを見せてくる。
「悪い人づきあいをしてるから成績が下がったって言われても、嫌でしょ」
「お姉さんは悪い人なんですか」
「ん、悪い奴かもよ」
口の両端を上げ、中坊を家に連れ込んで悪いことを教えてるからねーと、デスクの上にあるパソコンやカードを顎で示す。
「それですよ」
「んー?」
「教えてもらってないです」
ただ一緒にいるだけじゃないですか。そう続ける。
一緒にいるだけで楽しいけど、教えてもらってはない。
「教えてくださいよ。パソコン通信とか、ゲームとか」
「うーん。こういうのって教えてなんとかなるもんじゃない気がするしさー」
カルマっつうかさ、なっちゃうんだよ。などとぶつぶつ呟いている。
「あたしも誰に教えられたわけでもないのよ。自分で好きなことを見つけて、そっちに向かったら、いつの間にかこんなになっちゃったわけ」
そう言って頭をぐるりと回すお姉さんに合わせ、わたしも部屋をぐるりと見渡す。たくさんの本と、ゲーム、そしてパソコン。
趣味の部屋だ。いわゆるオタク、マニアな人なんだろう。
「だから教えるったって無理かなー。だいたい、遊びは教えられるもんじゃないよ。最終的に続くかどうかって、その人のセンスだから」
厳しい。だが、わたしも興味があるから言っているのだ。
「パソコン通信って、どれくらいかかるんですか」
「パソコンと、モデムっていう機械と、電話回線がいるけど、家にパソコンがあるとして、回線使わせてもらえるかが一番きついかもねー。中学生が見ず知らずの不特定多数とコミュニケーションする。ってだいたいよくない方向の想像されるでしょ」
実際言葉にされると、ぐうの音も出ない。このお姉さんのことだ、それをどうにかする論理を教えてくれたりはしないだろう。多分、そーゆーのは自分でやりなよー。などと言われ、はぐらかされるに違いない。
「そう、ですね。厳しいです」
「そもそも君んちにパソコンあるんだっけ。まずはそこからかなー」
「一応親が持ってますけど」
「そっかー。それならモデムが一万円くらいかな」
結構安い。それならお小遣いの貯金から出せそうだ。
「ま、うちで余ってるやつも貸せるけど」
あれだけ深刻な話をしたのに、わたしが結構やる気だと見たら乗り気なのだろうか。
「それにさ」
よっ。と立ち上がり、デスク前の椅子を半分くらいこちらへ回す。
「その掛け声、年寄り臭いですよ」
「いーの、君から見たら年寄りなんだから。それより、さ」
椅子に座るよう促される。なんなんだろう。
「ほい」
椅子を回され、体がデスクに向けられる。そこにあるのはパソコンのキーボードと。ディスプレイ。そしてマウスや灰皿。
「とりあえず、どこかのネットをゲストで見てみる?」
お姉さんがわたしの肩越しにキーを叩くと、画面が切り替わっていく。
「ゲストって何ですか」
「文字通りお客様。読み書きできる掲示板が限定されるけど、雰囲気はわかってもらえるかも。情報も登録しないでいいからね」
またキーが叩かれ、あの機械音が響く。
「ここからは自分でやってごらん」
画面に出ている説明は幸い日本語だったので、それに促されてゲストで入るための文字列を入力し、送信する。ここは学校の授業で少し触ったパソコンの操作と同じだ。
「こうやって繋ぐわけ。で、後は掲示板を覗いたりするわけだけど」
操作のやり方を教えてもらいながら、掲示板を眺める。ゲストなので見られる場所は制限されているらしいが、それでもかなりの量があり、その中では自己紹介や日常のちょっとしたことが書き込まれている。十分ほど眺めて、回線を切る。
「教室の雑談みたいですね」
「そ、自分で居心地のいい場所を探せるのが利点かな」
わたしがここにたどり着いたように、お姉さんも探していたのだろうか。
「あの」
「んー?」
思い切って訊いてみる。
「ここでパソコン通信、させてもらっていいですか」
あつかましいことこの上ないが、ちょっと試してみたい魅力があった。お姉さんはうーんと唸りながらも、笑みを浮かべて言った。
「ま、うちでする分ならあたしが見てやってられるしさ」
遊びにおいでよ。
「それ、殺し文句ですよ」
「知ってる。恥ずかしいんだよ、こっちも。みなまで言わせるない」
多分、この人もわたしも、不器用なんだろう。人との距離の取り方や、縮め方が。だから、時々お互いびっくりするような詰め方をする。
こういうのを何というのだろう。同病相憐れむ。類は友を呼ぶ。とにかく、そんな言葉が恥ずかしさを打ち消そうと頭の中をぐるぐるする。
しかし本当に大事なのは、お姉さんの好意はたぶん本物だということ。
そして、わたしはその好意に甘えたいということだ。
「よろしくお願いします」
今度はお互い笑い合えた。自分の表情はわからないが、そう確信できた。