ハンバーガーショップでの一件から少し経った。
週末を挟み、中間試験を前にして、春先からニュースを賑わせていた宗教団体の教祖が逮捕された。
わたしに直接関係があるわけではなかったが、学校では職員室かどこかで情報を仕入れた誰かが教室のテレビをつけ、その様子をぼんやりと眺めていた。今年の頭から報道され続けてきた大事件だ。授業の時間になってやってきた先生もしばらく止めはせず、試験前の授業は数十分が外界での出来事で切り取られた。
そんなことのせいか少し浮ついた雰囲気を感じながらも、週末に試験はやってきて、終わる。
そして、試験ムードから解放された土曜の放課後。
ご多分に漏れず、わたしも駅前のハンバーガーショップにいた。
今日は友達と一緒に、中高生のごった返す禁煙席で。
心はどこか上の空のまま、試験についての雑談や噂話をこなしていた。
正直いって、わたしは世の中を舐めているのだろう。
友達づきあいも、計算して作られた普通の中学生という殻を維持するための作業だと感じることが多い。
そして、それは今のところ順調に続いている。
それがちょろいと感じることもよくある。
だから、わたしは多分世の中を舐めている。
だけど、そんなことは大なり小なり誰もがやっているのだろうし、誰もがちょろいと心の中で舌を出しているのだろうとも思う。
それができないのは、辛いだろう。
すべてを真正面から受け止め、真摯に向き合うなんて、考えただけでも息が詰まる。
だから、わたしは普通の中学生というその他大勢になるための殻を被っている。
多分目の前に座っているみんなもそうなんだろう。などとぼんやり考えながら、駅ビルをぶらぶらしたりして時間を潰す。
そして日が落ちてから帰宅すると、今日も電話機の子機を前に思案する。
あのお姉さんのポケベルを鳴らしてもいいのだろうか。と。
番号をもらったのはいいけど、特に話題もない。
だからといって無視するのも据わりがよくないし、なにより。
なにより、わたしはあのお姉さんと話をしたい。そんな気がする。
しかし、特に話題はない。だから困る。試験の間は勉強があることを自分への言い訳にできていたが、今日からはそうもいかない。
気がつけば、机の上で腕枕をして乗せてメモを書き写した手帳のページをめくりつつ、声にならないうなり声を上げていた。
時刻は午後九時半過ぎ。以前の様子だとまだゲームセンターにいるかもしれないが、恋人といるところを邪魔したりはしないだろう。と失礼な予想を立てる。
そこまで頭の中で計算を立てて、ふうっと息を吸い込み、電話機の文字盤を押し、繋がったのを確認したらこちらの番号を打ち込んでいく。
いざやることをやったら、部屋の静けさが居心地の悪さを感じさせる。再び机の上でうつ伏せになって返事を待とうとすると、不意に電話機が鳴った。
「あいよ、どなた?」
取った電話の向こうから聞こえてきたのは、間延びしたあの声だった。
「わたしです。この前ゲームセンターで」
その声で察したのか、こちらに被せてくる。
「ああ、君かー」
ふふっと笑い声が聞こえた。
「鳴らしてくれるんだ」
そう言われるのも心外だ。だいたいわたしは教えてもらったから電話をかけたのだし。そうするまでに相当気を遣っているのだ。
「番号教えてもらいましたから。それに、誰からかもわからない番号にかけてきたのはそっちですよ」
「あーりがと。そういえばそうだわ」
また笑い。なぜだろう、わたしはこのお姉さんには当たりがきつくなるというか、本心をあけすけに出してしまう。
「だからといって、話すことはないんですけど」
「だね」
沈黙。
「そう言われても困ります」
電話の向こうからはかちかちと音がする。ワープロかパソコンでもいじってるのだろうか。
「うーん。そういや試験は終わった?」
「ええ。今日」
「ちゃんと勉強してから電話したんだー。偉い偉い」
言うと思った。だけど、ワープロやパソコンをいじってるのなら、大学の課題をやってる途中なのかもしれない。
「お姉さんこそ、勉強中だったりしてませんか。迷惑なら」
切ります。と言いかけたところでまた被せられた。
「あー、キーの音で気い遣わせちゃった? 悪いね。けど、こっちは趣味だから」
駄洒落なんだろうか。そんなことを考えていたらまたかちかちと音がした。趣味なら、ゲームか何かか。授業でも使ったし、パソコンでもゲームができるくらいは知っている。
「それならいいんですけど」
「まあその、なんていうのかな。あまり気にしなくていいから。あたしもそういうの込み込みでベル番渡したわけだし」
さらりと言ってのけるけど、それってかなり重い気がする。この前のことといい、このお姉さんはふらりと一気に距離を詰めてくるこの感じは、一気に顔を近づけられるような気恥ずかしさがある。
「初対面だったのに。そういうのよくないですよ」
「えー。考えが古くない? それに一目惚れってのもあるんだし」
また来た。こういうのが苦手なのだ。言葉に詰まってしまう。
「苦手、です」
顔が熱くなり、思わず口に出る。感情を素直にぶつけられるのは苦手。
わたしはそれが下手だから。
「なんか悪いね」
少しの沈黙の後、ちょっと深刻そうな声で謝られた。それはそれで悪いことをした気になる。
「あたしの方も距離の取り方が苦手っていうかさー。適当にやってたら距離詰めすぎって友達に怒られたり、むしろ距離置かれたりするわけ」
それはわかる。一気に詰められたら、誰でも対応に困ってしまうだろう。
「あ、でも。嫌ってわけじゃないですから、その」
困るんです。そうぼそりと呟いた。
このお姉さんは、わたしの殻の中まで入ってきてしまう。悪気もその気もないんだろうけど、素のわたしを捕まえようとしてしまう。
「もうちょっと距離感考えましょうよ」
思わず口から出てしまう。普段友達には言わないような直裁な言葉。
受話器の向こうからは吹き出すような声が聞こえた。
「そーそー。ゲーセンでもそうだったけどそれくらい辛辣なほうがいいって」
「挑発してたんですか。怒りますよ」
電話越しでの会話なのに、頬を膨らませている。
「いやー。でもね、そういうところがいいって思ったから」
言っていることの意味がちょっとわからないが、声の調子からすると褒めてるつもりなんだろう。
「ツッコミする子、かわいいじゃん」
顔が熱くなるのがわかる。かわいいと言われるのはちょっと破壊力がある。
「か、かわいいって」
「えー。かわいいよー。割と容赦ないところとか」
他人にそういう姿はあまり見せないし、そう評価されたこともない。
虚を突かれて声を出せないでいると、向こうからちょっと申し訳なさそうな声が聞こえてくる。
「ごめんごめん。返しづらいこと言っちゃったね」
「お姉さんって結構意地悪。というか無神経ですか」
かわいいと言われたのだし、これくらいはいいだろう。
「ごめんごめん。からかいすぎた」
あまり反省してなさそうだが、この人は多分こんな人なんだろう。色々言っても柔らかくかわされてしまう。
だけど、不思議と腹立たしさは感じない。あの間延びした笑顔が頭に浮かぶからだろうか。
言っても無駄。とはなんとなく違う。
少しの心地よさがともなう何か。
「拗ねちゃった?」
返事をせずにそんなことを考えていると、ちょっと心配そうな声で現実に引き戻される。
「拗ねてませんよ。ちょっと考えごとしてただけです」
「そっか。それならよかった」
「それなら最初から言わないでください」
ほっとしたような声がしたので、少し意地悪をしてしまう。
「かわいいのはほんとだかんねー」
悪びれない返事が返ってくる。かわいいとか、魅力的だとか、そういうことを強く意識してこなかったせいかもしれないが、よく考えたらそう言われるのは悪くない。
「ここぞというところでちゃんと言える子は魅力的だよん」
「はあ」
けむに巻かれた気もするが、褒められたと受け取っておく。それにしても、このお姉さんと話をするといつもと違う部分が出てしまう。
「そういや、試験ではちゃんとマイナスのこと忘れてなかった?」
試験勉強指摘された部分のことだと気づくのに少しかかり、それから自分の答えを思い出すのにまた少し。
「多分、大丈夫です」
「そっかー。それならあたしも教えた甲斐があるってもんだ」
それから、わたしたちはしばらく話し込んだ、試験のことや、最近の出来事について。何ということはない、友達とするような話を。
「学校でもニュース見てたのか。駅前じゃ号外配ってたらしいよ、っと。もうこんな時間か」
時計を見ると、もう十一時近くになっていた。
「長話になっちゃいましたね」
「だねー。悪いけどそろそろ用事あるから」
「バイトですか」
ちょっと気になる。わたしたちはお互いに何も知らなさすぎるのに、お互い距離を縮めている。
だから、少しは知りたいのだ。
「んーん、趣味。パソコン通信。って、知らない?」
「聞いたことくらいならありますけど」
父親が仕事の関係でやるかもしれない。と言っていた気もする。
「それやってんの。十一時から電話代安くなるんだわ」
「じゃあ、わたしに電話かけてるのは」
結構長話してたし、迷惑だったかもしれないと気づく。
「市内通話だから気にしない気にしない。十一時からはもっと遠いとこにかけるのさ」
「それならいいんですけど」
「そうだぞー。こっちからかけたんだし、気にしない気にしない。んじゃーね」
「あ、待ってください」
肝心なことを忘れていた。言おう言おうと思っていて、引き伸ばしていたことを思い切って口にする。
「また電話したいから、番号教えてもらっていいですか」
「おっ、積極的だねー。いいよーん」
そんなことだろうとは予想していたけど、あっけなく承諾された。また恥ずかしい台詞つきで。
それを復唱しながら手帳に書き留めると、今度はお姉さんのほうから話を振ってきた。
「じゃー。ところで今度、会える?」
「会う。って、いつですか」
「いつでもいいけど、明日とか? ああ、無理だったら無理でいいから」
唐突だけど、特に予定は入れてない。
「いいですよ。テスト終わって暇ですし」
会ってみたいのか、勢いに負けたのか、わたしの口はあっさりと約束を取り付けてしまった。
「ありがとー。じゃあ昼くらいに南改札で」
「何かあるんですか」
「んー。何するってわけじゃないけど、明日は買い物に出るし、それも兼ねたデートってやつ? コーヒーくらいなら奢るさ。それとも紅茶?」
「またそんなこと言う。でも、いいですよ。奢ってもらえるし」
デートという言葉はあえて無視し、食べ物で釣られたふうに取り繕う。
「それじゃあ、明日」
「んじゃねー」
電話を切って、椅子からベッドへ倒れこむ。枕を抱えると、顔が上気しているのがわかる。
それもこれも、お姉さんがかわいいとかデートとか、恥ずかしい言葉を軽々しく使うからだ。
明日会ったらそれを注意することも考えつつ着替えていると、時計が目に留まる。
結局、十一時を過ぎて話し込んでいた。
パソコン通信は大丈夫なんだろうかと考えながら、わたしは眠りにつき。
翌日。
思ったよりも早起きしてしまい、身支度を済ませると予定より早めに家を出る。ライトグリーンのパーカーにデニムのスカート、ちょっとずれるけど黒いディバッグに文庫本を一冊。お姉さんが来るまでこれで暇を潰せばいい。自宅近くの駅から、約束した駅へと数分間電車に揺られる。
日曜昼前の電車はところどころに空席もあり、いつもの通学時とは違うのどかさがあった。しかし、待ち合わせの場所は結構大きな駅なので、他の路線から吐き出された人も集まり、結構混雑していた。
これじゃあ、お姉さんを待ってても気づかないかもしれない。そんな心配をしたのだが。
いた。
改札を抜ける前からわかる。飾り気のない長袖のカットソーにジーンズ、そして履き古した感のあるローファーのお姉さんが、革のポシェットをたすきがけにして改札口の真正面にある柱にもたれかかり、人波にさらわれることなく、火のついてないタバコをくわえてぼんやりと立っていた。
慌てて定期を出して改札を通り抜け、小走りに駆ける。かすかにタバコの匂い
「お、早かったねー。まだ十一時過ぎじゃん」
わたしに気づき、手を上げるお姉さん。着古して緩くなっているのか袖が少し余り気味だ。
「そっちこそ、まだ十一時過ぎじゃないですか」
「あたしが誘ったからさー、そこはきちっとしないと。年上だし、漠然としか時間設定してなかったし」
この人にそんな感覚があったことに少し驚くが、悪い気はしない。
「ちょっと驚きました」
「ルーズそうに見えたから?」
口の端がくいっと上がり、瞳が輝いてあの悪戯っぽい笑顔が見える。他人へ積極的にアピールする気がないような笑顔。
口を開けたり大きな声を出したりして笑うのは、自分は笑っていますと周りに主張しているようで、あまり好きではないから。
密かな自分だけの笑いは、この人に合っている。そんな気がする。
そんなことを考えながら、すたすた歩き始めたお姉さんについて、駅ビルの外へ出る。
「退屈させそうだし、さくっと済ませちゃおうかね」
「あまり気を遣わなくていいですよ」
買い物といっても何を買いに行くか告げられていないし、想像もつかない。それだけでも少し興味がある。
「いやー、割と気い遣うって。君、そういうやつに興味なさそうだし」
お姉さんがこちらを向くといつの間にかタバコがなくなっている。ポシェットになおしたんだろうか。
「それなら何で誘ったんですか」
「んー? 言ったじゃん。デートだって」
「そんなこと人ごみで言わないでください」
恥ずかしい。顔が熱くなる。
「ごめんごめん。もーちょい歩くよ」
大通りを少し進み、家電量販店へ。フロアを突っ切ってエスカレータに乗る。二階、三階でまた歩き始め、お姉さんが足を止めたのは、パソコン売り場だった。通路に面した陳列テーブルの上にはさまざまなパソコンがディスプレイされ、売り場の半分くらいと壁際には棚が置かれて本やさまざまなパッケージが並べられている。
「ここここ。買うものは決めてっからすぐ終わるさ」
そう言った通り、お姉さんはディスプレイを眺めながら歩き、ワゴンに積んである箱を取る。これくらいならわたしにもわかる。フロッピーディスクだ。学校の授業ででも使った。ただ、彼女が取った箱には五十枚入りと書いてある。そんなに何に使うのか。
それから専門書らしき本を何冊か取り、色とりどりの箱が置いてある壁際の棚へ。よく見てみると、ここはパソコンで使うソフトの売り場らしい。
「んー」
それをさっと見ていくと、お姉さんはうなってしまった。
「どうかしたんですか」
「いやー。欲しいのが売り切れちゃってるみたいでさ」
「困りましたね」
返事はない。その代わり、お姉さんは少し考え込むような顔をしている。
「あのさー。もう一件心当たりがあるから、そっち行っていい?」
ちょっと申し訳なさそうな顔をしている。この人もこんな顔をするのだと少し意外な感じがした。
「いいですよ。今日のことは任せてますから」
デートですからね。とは言わない。言ってやらない。言えない。
「ありがとー。じゃあこれだけでも買っちゃお」
会計を済ませ、ビルの外へ出る。丁度お昼時で、人も増えてきた。
「こっからちょっと歩くから」
「はい」
またお姉さんはさっさと歩き出した。駅ビルの方向へ戻っていくのだが、かなり人が多い。反対側や横から来る人並みで彼女を見失いそうになる。時折足を止めてこちらを見てくれてはいるのだが、どうにももどかしい。
何回目かに足を止めたとき、お姉さんは左手を後ろに出し、こう言った。
「手え繋ごっか」
この人は隙さえあれば間合いを詰めてくる。さらに、既成事実を作るのも上手いのかもしれない。少し気になってしまう。
しかし、ここまで人が多いとそれが合理的ではある。
「はい」
右手を出すと、お姉さんの手を握る。
初めて握った彼女の手は、少しひんやりしていた。
「君の手、あったかい」
言い返せず手を引かれていく。駅前に戻ると商店街のアーケードへ入る。かなり人が多い。
手を繋いでいてよかった。お姉さんは割と足が速いし、こちらを見ているか怪しいので、人が多すぎると見失っていたかもしれない。
路地へ入る。中学校に入学して一年と少し最寄り駅だったけど、行ったことのない場所へと導かれていく。
いくつか角を曲がり、連れてこられたのはどこにでもあるような雑居ビルだった。一階には何かの会社が入っているようで、シャッターが閉まっている。
お姉さんは慣れた雰囲気でその横にある通路に入り、エレベータのボタンを押すと、ほどなくエレベータの扉が開いた。気がつくと、いつの間にか手が離されていた。
「どーする? ここで待っててもいいけど」
「一緒に行きます」
今更何を言ってるんですか。とは言わず、エレベータに乗る。
お姉さんはにい、と笑ってうなずくと、行き先のボタンを押して閉ボタンを押す。
頭の上から押してくるようなあの感覚を味わい、数十秒で目的の階へ。
お姉さんに導かれてやってきたのは、飾り気のないガラス張りのドアの前だった。向こう側には棚とその上にパソコンや箱、色々な物がごちゃごちゃ並び、それを物色している人たちがいる。彼女はそこへドアを引いて入ると、首をすくめるように会釈する。わたしも続き、やはり小さく会釈する。
「いらっしゃいませ」
店の中、ドアからは死角になっているカウンタから声がかかる。なるほど、だから会釈していたのか。
レジの前にはエプロンをつけた細身の青年が立っていて、この人が声をかけていた。
「ちょっと待ってな。見てくるから」
お姉さんは棚でごちゃごちゃした狭い通路を慣れた感じで進み、ある棚の前で立ち止まり、目的の物を見つけたのか取って戻ってきた。
「会計よろしく」
箱をレジに出すと、ポシェットから財布を取り出したお姉さんに、レジの人が声をかけた。
「はいはい。ありゃ、こんなのやるのか。てっきり昔やってたとばかり」
「ソフトもマシンも実家だし、リバイバル買おうと思ってたんだよー。忘れてたけど」
またいい加減なことを言っている。でも、やろうと思って忘れていることはわたしにもある。
「あまり無意味に見ていかないんだな。いつもは三十分はかかるのに」
「今日は連れがいるかんねー」
そう言って入り口の近くにある棚の隙間に立っていたわたしの方を見ると、男の人もこちらを見る。
反射的にぺこりと礼をする。
「ふうん。まあ君にも人並みの社交性はあったんだ」
お客にかなり辛辣なことを言っているが、お姉さんとは顔見知りなのだろう。そんな雰囲気がする。
「まーねー。デートだし」
レジを打っていた店員さんの手が止まる。わたしも顔が真っ赤になったと思う。
「ちょっと待てよ。えらい年下だろ。大丈夫か」
「んー。あの子の方がしっかりしてるしなー」
あの笑みを浮かべながら、支払いを済ませるお姉さん。釈然としない顔をしている店員さんからお釣りを受け取ると、レシートと一緒にくしゃっと丸めて財布に入れる。
「んじゃねー。今度はゆっくりさせてもらうわ」
呆然としているわたしの手を取ると、ドアを押してエレベータを呼ぶお姉さん。
「何であんなこと言うんですか」
エレベータのドアが閉まると、わたしはお姉さんに抗議した。
「だって昨日言ったじゃん。デートだって」
「社交辞令とかレトリックとか、そんなんじゃないんですか」
「いやー、親しい人と遊びに行くならデートみたいな?」
「それは普通に友達と遊びに行くって言えばいいんです。それに」
わたしはお姉さんのことを知らなすぎるし、お姉さんもわたしのことを知らなすぎる、と思う。
「それにわたしたち、この前初対面で一回電話したくらいじゃないですか。それで親しいとか、デートとかって、軽すぎます」
エレベータを出て、お説教をするように抗議する。
「話してたら君のこといいって思っちゃったからなー。一目惚れ? 友達になれそうだって」
軽い感じで言ってくるけど、珍しくこっちをしっかり見てくる。確かになんだかんだでわたしはお姉さんのことが嫌いではないので、お互い馴染む部分はあるかもしれない。
「それはわかりましたけど、距離を詰めるのが早すぎるんです」
でも、言うことは言わないといけない。
「そうだった、ごめん」
はっと何かに気づいた顔になるお姉さん。そういえば、距離感については自分でも言っていた。
「公言したのはまずかったかなー」
いまひとつ理解がずれているようだけど、反省しているならいい。
そういえば、通路で話し込むのはあまりよくない。それに気づいて、わたしは手を差し出す。
「デートなんですよね。エスコートしてください」
まともにお姉さんを見られないし、声も震えたけど、仕返しをしてやった。
「はいはい。お姫様」
お姉さんはそんなわたしの手を取る。少し低い体温が火照った手に心地よい。
「んじゃー、昼時だし何か食べに行きますか」
腕時計を見ると、一時を回っていた。ただ、日曜のこの時間帯に空いてる店が見つかるかどうか心配だ。
わたしたちは駅前に戻るルートを取り始める。来た時にも増してだんだん人が多くなってくる。手を繋いでいるお陰ではぐれる心配はないが、冗談半分で言った言葉通りにエスコートしてくれるなんて、この人は割と律儀なのかもしれない。
「あちゃー、満員だわ」
この前来たハンバーガーショップの前で立ち尽くす。店の中には空席待ちをしている人もいるくらいだ。
「どーする、待つ?」
「別のところにしましょうか」
「だね」
待ってまで座るところじゃないという認識は共通していたようで、そのまま駅前の広場を一周するが、なかなか席が開いている店は見つからない。
「あ、そーだ。空いてるかもしれない店あるけど、行っていい?」
「いいですよ」
商店街の外れにあったパソコンの店へ行く道を戻り、別の道へ入ると、しばらく行ったところにレンガ造りで蔦を這わせた建物があった。
「空いてるかなー」
わたしの手を引いたままお姉さんがドアを開け、階段を下りる。半地下の空間らしいそこにやってくると、そこはタバコの匂いがうっすらと漂い、薄暗い中に地上からの光が洩れてくる空間だった。かなり雰囲気がいい。
「何名様ですか」
「ふたり」
「あちらへどうぞ」
ウェイトレスさんが手で指した先には、ふたり掛けの席がいくつか空いていたので、そこに座る。
「空いててよかった。っていうかこんないい雰囲気の店だったんだ。あ、吸っていい?」
灰皿を見つけたお姉さんが、タバコの仕草をする。というか、知ってる店じゃなかったのか。
「いいですよ。知らない店だったんですか」
「知ってたよー。外からしか見たことなかったけど」
そういうのは普通知らないという。
「色々連れ回したし迷惑もかけたんで、好きなの頼んでいいよん」
そう言いながらお姉さんはわたしにメニューをすすめ、自分の分も開くけど、そこで笑顔が固まった。
「はは、まあ、千、五百円くらいまででかなー」
そう言い足された。メニューを開くと納得。雰囲気に違わず、かなりお高い。普通の店より一回りか二回りくらい。
言われないでも遠慮する。結局わたしはミックスジュース、お姉さんはブレンドコーヒーとエビフライサンドを頼み、サンドイッチをふたりで分けることにした。
「そういえば、何でわたしを連れ回したのに、買い物の内容については何も言わなかったんですか」
ちょっと気になったので訊いてみる。他の友達がわたしを買い物に誘う時は、だいたいその商品のどこがいいのかを詳しく解説してくる。
「あー、うーん。なんつーの? わかる奴だけわかればいいっていうのとは違うけど、趣味は人に言うようなもんじゃないだろうしさー」
なんとなく歯切れが悪いが、わかることはわかる。わたしも何かのよさを語る人達のテンションには、時々ついていけなくなることがある。
「だからさ。っと、美味いねこれ」
サンドイッチの中のエビフライは、レタスと接している面はソースと絡んでしっとりしているが、もう片方の面はさくさくした感じを残している。そのギャップが口の中で混じり合う。お姉さんはそれを、この前ほどではないが砂糖とミルクをたっぷり入れたコーヒーで流し込み、続ける。
「趣味なんてさりげなく見せて、それに食いついたときだけ語ればいいわけよ」
確かにそういうべたべたしない関係はいい。だけど。
「そんなだからわたしたち、お互い何も知らないじゃないですか」
「えー、そーいう話? ただの一般論じゃんよー」
灰皿にタバコの灰を落としながら、お姉さんは口を尖らせる。
「そういう話です。それに、わたしはお姉さんのこと気になりますから」
「気になるってもなー。あたし、そんなに隠すようなことないし」
「隠すも何も、まず全然知らないんです。そんな状態で」
さすがに言いよどみ、ジュースを飲みながらごまかして続ける。甘酸っぱい。
「デートとか、おかしいじゃないですか」
多分わたしの顔は真っ赤になってるだろう。お姉さんはいつもは細めの目を開き、きょとんとしている。
「お姉さんにとっては冗談かもしれなかったけど」
テーブルの下でぎゅっと手を握る。言わせてやらない。
「わたし、額面通りに受け取っちゃいますよ」
言ってやった。
周りで食事の音や、話している声もあるのだが、そういうのは聞こえない。
沈黙が痛い。
「こんな奴のどこがいいんだって話だけど」
聞こえた。お姉さんの声だ。
「それじゃ、これからよろしく。何でも訊いてよ」
にい。と密やかな笑顔がわたしの目の前にあった。
「もちろんです」
目が潤むが、精一杯笑ってやる。
これから喉が渇きそうだから、ジュースでは誤魔化さない。
質問責めにしてやる。どこに住んでて、何が好きで、何をやっているのか。
そうすれば、家に帰らないといけない時間までは退屈しないだろう。
「じゃあ、まずは」