「親御さんに紹介する?」
いつも眠そうな目を丸くして、お姉さんが絶句した。
ここが彼女の部屋でよかった。ファストフードショップや喫茶店でなら、周囲からの注目は避けられなかっただろうから。
パソコンのデスク前に陣取り、こちらに顔だけ向けていた彼女が椅子を回し、床で漫画を読んでいたわたしと相対する。お姉さんの本棚にあったり部屋に積み重ねられた漫画はこれまであまり見たこともないマイナーそうな品揃えで、登場人物が何を言っているのかよくわからないのも多いが、割と面白い。
だから、わたしはお姉さんが本を読んだりパソコンを弄っているときは、勝手に漫画を読むようになっていた。今日はお互い試験も終わったことだし、夏休みのことでも話しましょうと言って昼前に家をおとない、お互いパソコンを弄り、漫画を読みながら、雑談をしていたのだ。
そしてさりげなく、この前から考えていたことを切り出した。
こちらを見ているお姉さんは、初めて見る表情になった。これがこの人の真顔なのだろうか。ジーンズに包まれ組んでいた足を戻し、キーボードからも手を放し、膝の上に置く。そして、震えながらその唇が音を紡いだ。
「誰を?」
「お姉さんを」
わたしは本を床に置き、お姉さんの方を向いて返す。
「誰に?」
ぽかんとした顔を不可解に歪ませ、続きを訊いてくるので、これにも即、返答する。
「わたしの親に」
沈黙。外で鳴く蝉の声と、窓枠にはめ込まれたエアコンの音が響く。
「いやーそれはこう、何かまずくない?」
手を妙な感じに動かしながら、しどろもどろになるお姉さん。Tシャツに描かれたおかしな顔の動物よりおかしな顔をしている。この人のこういう表情が見たくなかったといわれたら嘘になるくらい、わたしはこの展開を狙っていた。
「何がですか」
努めて平然と言葉を返す。
そう、全然おかしなことはないはずなのだ。
「勉強を見てくれてる先輩を、親に紹介するだけですよ」
改めて言葉にすると、どこにもおかしな要素はない。
「でもさー、あたしはそんなに褒められることしてないっていうかさー、むしろ君を悪い道に引き込んでるような気もするし、そういう負い目って奴? あるわけよ」
お姉さんはしどろもどろである。だが、言いたいことはわかる。ゲームやパソコンになんとなく興味を持ち、パソコン通信をたまに覗かせてもらったりもしている。
それが世間一般でいう中学生女子に望まれるものかというと、違うだろう。だから、悪い道というのも確かにその通りかもしれない。
「でも、お姉さんはわたしくらいのときには、もうパソコンを買って通信とかやってたって言ってましたよね」
特定の意図を含ませて以前言われたことを引用する。ちょっとずるい。
「そりゃまあ、ねえ。だけど自分の趣味が一般的じゃない自覚はあったさ」
何もない方へ目を泳がせながらもごもごと言葉が続く。
「だからさー、君まで苦労する必要はないんだよみたいな親心? みたいなのがあるわけよ」
「それはわたしが決めることです。それに、最初に声をかけたのはお姉さんですから」
これを言うのはかなりずるいか。目を合わせ辛く、上目遣いになる。
「そっかー。そーなんだよなー」
はああと長いため息を吐きながら、お姉さんは椅子から立ち、わたしの横を通り過ぎて部屋の反対側にあるベッドの下半分に上半身をうつ伏せた。少し埃が舞う。
「最初に声かけたのあたしなんだよなー」
「後悔してますか」
「少し。あんなゲーセンに来る奴なんて、どうせ同類だと思うじゃん」
顔をちょっと横に向け、そんなことを言うお姉さん。
「まさかゲームとかよく知らない、こんなお嬢様だったなんてさー」
「お嬢様って」
そんな柄じゃない。わたしはただの中学生だ。
「いやー、お嬢様じゃないなら、アレだ、堅気とか一般人っていうの? キラキラしてる方。そっちの世界の住人だったなんて」
お姉さんはわたしに対して負い目を感じているらしい。オタクっぽい趣味がないわたしに接触してしまったこと、彼女としてはそれ自体が不本意なのかもしれない。
気にしなくていいのに。こちらもこちらで、わからなかったり、興味がないなりに楽しくやれているのだから。
「らしくないですよ」
わたしもベッドの上半分、お姉さんの横へ上半身を投げ出す。
布団からは煙草や他いろいろなものの混じったお姉さんの匂いがした。嫌ではない。
顔を横にすると、お姉さんの顔が目の前にある。半分布団に押しつけられ、髪もばらばらだ。多分、わたしも同じようなものだろうが。
「もー、何なのさー」
「だから、らしくないですよ」
お姉さんはもっと図太くて、人の心にずかずか踏み込んでくるじゃないですか。と、そう言おうとして、さすがに飲み込んだ。
見てないようで目ざとく観察しているのは勉強を見てもらってるときにも感じていたが、変なところで気にする質でもあったみたいだ。
「んなことないさー。これでも結構気にするんだい」
口を尖らせて反論する。ちょっとかわいい。
「何をですか」
これは純粋な疑問。お姉さんは何を気にしているのだろう。
「いろいろー。これでも繊細なんだい」
反対側にごろりと転がられてしまった。こちらからは後ろ頭が見えるだけ。
「例えばさー、あたしが見てやれなくなったら、変な知識だけ持っちゃったこの子は大丈夫なのかとか」
だんだん声が小さくなってくるので、聞き逃さないように気をつけるが、ちょっと不可解な方向になってきた。
「もし突然君に嫌われたらあたし大丈夫かなーとか。そーゆーこと考えちゃうわけよ」
歯切れ悪くそんなことをぼそぼそ呟かれた。
そこまで気にしなくても。いや、気に掛けてもらえるのは悪い気はしない。しかし、何もそこまでと言いたくなる。
心配性だ。
「心配しすぎです」
思わず呆れてため息が出てしまう。
「んー、そーねー。今のは極端だとして、上手く行ってるのに予測し辛い要素を入れるのって怖くならない?」
それはわかる。いつもと同じ道を通ればいつもと同じように学校や家に着くのに、それをわざわざ変える意味はない。
だが、それを外してわたしはお姉さんと出逢ったのだ。
だから、多分少しは否定しておいたほうがいい。
「でも、わたしはいつもと違う方法で家に帰るとき、お姉さんに逢ったんですよ」
「それを言われるとなー」
もともと、わたしの人生の中でお姉さんは異物だった。それが、いつの間にか結構気の合う友達みたいなつき合いになっている。
だからどれくらい外していくかの加減が大事なんだろう。しかし、わたしもお姉さんも、それを適切にできるかといわれると、ちょっと言葉につまりそうだ。そもそも、そんなことに自信がある人はいないんじゃないだろうか。
お互い何も言えなくなり、また外の蝉時雨がうるさくなる。このアパートの近くには緑が多い。そういうところに何匹もいるのだろう。
「ねー」
蝉の声の水たまりに一石を投じたのは、お姉さんだった。体をもぞもぞと動かし、気まずそうにこちらを向く。ちょっと目が潤んでるように見える。
「はい」
自然と目が合う。少し逸らして調整する。お互い人の顔を見るのが苦手なので、ちょっと時間がかかる。
こんなに顔を近くして話すのは初めてだ。お互いの息が当たりそうなくらいの近さ。
「君んちの親御さん、厳しい?」
決めたら要件から話す人だ。こう来たなら、覚悟ができたのだろう。
「普通。だと思います。交友関係や遊びに行く理由なんかは一応訊いたり、帰りが遅くなったら注意されますけど、決まった門限とかはないです」
女子校だからか厳しい家だと門限厳守だったり、お小遣いは必要なときに使い方を言わないともらえない同級生もいる。そういうところを厳しいというのなら、うちはかなり緩いほうだ。そもそも、中学受験も今後の進学を見据えてとか、礼儀作法を身に着けるためみたいな高い志を持ってやったわけではない。たまたま家の近くに一貫校があったので、先に受験を済ませておけば中高は楽。くらいの考えなんだと思う。
そういうわけで、まあ、普通だろう。
「そっかー。少し安心した。一応母校だからそれなりに知ってるけど、やたら厳しい家もあるかんねー」
そういう家の子だと、そもそも服に煙草の香りを染みこませて帰った時点で大変だ。だから喫煙可能なファストフードやファミレスに行くのも駄目な子がいる。
「煙草の匂いつけて帰ってもうるさく言われなかったし、大丈夫ですよ」
「あー、そっかヤニか、ヤニがなー」
ちょっと苦い顔をするお姉さん。
「どうかしましたか」
「いやね、親御さんがそういうのよくないって言うのなら控えないといけないし、トシがばれてもまずいかなーって」
そう言われてしまうと、お姉さんが急にわからなくなってくる。年齢不詳の童顔で、大学生というのはあくまでも自称。わたしは彼女がひとり暮らしだったり、いつも私服を着ている状況証拠でそれを信用しているだけだ。今まで変なことはなかったが、何もかもがあやふやな土台の上に乗っていた関係だと思い返し、少し怖くなる。
「あー、変な心配させちゃった? ごめんごめん」
表情に出てしまったのだろうか。お姉さんが慌ててフォローしてくる。
「トシってのはさ、えーとね」
ん、っとベッドの上に手をついて上体を起こすと、お姉さんはテーブルの上にあったパスケースを取ると、また上体だけで寝そべる体勢に戻り、それを開いてわたしに見せてきた。
そこにあったのは、写真付きの学生証。以前お姉さんが言った学校のものだった。
身分が自称ではないことを示そうとしたのだろうか。そう思ったが、もじもじしているようにも見えるお姉さんの様子を見るにちょっと違うようだ。
「えーと、生年月日見たらわかると思う」
言われて見てみると、そこには昭和五一年生まれとあった。わたしが五六年生まれなので、五歳差。するとお姉さんは。
「未成年だったんですか」
そういえばここに初めて来たとき、今年から住んでると言っていた。入学のときに引っ越してきたということか。
「えへへー。ま、そういうこと。じーちゃんがよく喫っててさー」
照れ隠しか緩んだ笑顔になるお姉さん。
まあ、悪いことなんだろう。ただ、わたしは特にそれを指摘したり怒ったりしてもしょうがないとも思う。
「わたしが止めてと言う筋合いもないですから」
だから、こう言うしかない。
「悪いねえ」
パスケースを畳んで渡すと、誰に言うともなしにそう呟くお姉さん。
「親の前で喫うのはやめてくださいよ」
「しないよー。というか親御さんと対面するの?」
お姉さんは少し驚いたような顔をした。
「紹介するって言ったじゃないですか」
「いやー。電話でいつもお世話になってまーすって言うくらいなのかなーと」
「顔を見せて挨拶したほうが信用されますよ」
確かにわたしが電話してるときに紹介すればいいのかもしれないが、お姉さんみたいに一見無害そうな人なら、実際に顔を合わせて話した方が、親は信用してくれると思うのだ。
「信用されるかー。で、信用してもらってどうするのかなー」
ちょっと意地悪そうな顔で言ってくる。やっぱり気づかれてしまったか。
しょうがない。
「この前言ったじゃないですか。夏休みに、どこか行きませんかって」
正直に言った方がいいだろう。実際、そのために考えたことなんだから。
「そうかそうか。でも、あたしなんかで本当に」
「いいんです」
眉間に力を入れてお姉さんの言葉を遮ると、お姉さんは目を見開いてから、徐々に穏やかな表情へと変化した。
「ありがと」
「事実ですから」
恥ずかしいので素っ気なく言う。この人のどこがいいのか、自分でもよくわからないからしょうがない。
「でもさー、行くってどこにさー。前も言ったけどあたしインドア派だぜ?」
そう言われると、わたしもちょっと困る。こちらもプールとか海に行き、クラスメイトと鉢合わせたりは、あまりしたくない。このつき合いは家や学校と切れているからいいのだ。
そうして考えると、親に会ってもらうのはかなりリスキーなのだが、それはしょうがない。必要な代償というものだ。
「別に、ここでパジャマパーティとかでもいいんです」
素直に、なんとなく考えていたことを言う。
「ここで」
お姉さんはずる、ずると体をベッドの上に登らせ、座った。
わたしもそれに従う。
「パジャマパーティ、ねえ」
そう言いながら、お姉さんは頭をぐるりと巡らせる。わたしもそれに従って、部屋を見回す。
畳敷きで本棚やパソコン、ゲーム機、さまざまな物が雑然と積み重ねられた部屋。
確かに、パジャマパーティという言葉から連想される、かわいいとかおしゃれ、みたいな言葉とは無縁だ。むしろその反対側にあるといっていい。
「いやー、それはちょっとねえ。第一、そこまで言うならちょっと訊いておかないといけないことがある」
脚を組み直し、少し真面目な声音になるお姉さん。
「君が前言ってたみたいに、家や学校にいたくなくて、それでここに避難したいなら、答えはノー。そーゆーのはこれも前に言ったけど、カウンセラーとか役所みたいなしかるべきところで適切に対応されるべきだかんね」
家や学校にいたくない気持ち。それがないと言えば嘘になるが、今回の動機は違う。もっと違うことがしたいのだから。
「違います」
だからちゃんと、照れずに言ってやるんだ。
視線をお姉さんの方に向ける。
「わたしはお姉さんと一緒の時間をもっと楽しみたいから、どこかに行ったり、ここに泊まったりしたいんです」
これまで言ってきたことの再確認なのだが、改めて明言してやった。
お姉さんの真面目な表情が崩れる。早い。
「わーかった。だからあまりこっちを見つめないで。恥ずかしい」
わたしも恥ずかしいので、目を逸らす。何をやってるのだろう。
恥ずかしい。
でも、ちゃんと言っていかないと伝わらないから。
そもそも、ちゃんと言葉にしても、お姉さんに受け入れられるかはわからない。
それでも、わたしから挑まないとこの人は察してくれない気がする。
こういうのが惚れた弱みなんだろうか。この場合、友達に対してなのだが。
「そーゆーことなら、安心した。あたしも親御さんに挨拶してやろうじゃない」
やっとゴールに辿りつけた。ふと壁の時計を見ると、話を切り出してから十数分が過ぎていた。結構長く感じたのは、緊張のせいだったのか。
「ありがとうございます」
頭を下げてみて、あらためて自分たちがベッドの上で膝を突き合せているシュールな状況だったことを認識する。
「とりあえずさー」
「はい」
「床、座ろっか」
「はい」
お姉さんも気づいたらしく、お互い苦笑いしてベッドから降りる。
ともあれ、七月も最後になってしまったが、これで懸案は片付いた。
「そーいや、遊びに行くあてだけど」
散々インドア派と言っていたが、何か思い出したりしたのだろうか。キーボードを叩き、起動しっぱなしのパソコンを操作し始めた。
「一応、あるにはあった。パソコン通信の友達に呼ばれてるのだから、ふたりきりってわけじゃないけど」
ふむふむと頷きながら続きを促す。
「八月の十八日から二十日まで」
三日間。しかしお盆休みではないので、家の予定と被ることはなさそうだ。
「ただなー、場所がなー」
「どこなんですか。山とか海とか」
お姉さんが渋るということは、キャンプか何かに誘われてるんだろうか。
「いや、東京」
さらりと言われたが、それは厳しい。ここからだとどうしても泊まりがけだ。旅費を考えるとかなり厳しい。しかし、貯金を使えばあるいは。だが、親の許可を取れるかが怪しい。
そんな皮算用をしている横で、お姉さんは画面を見ながら次の言葉を紡いでいく。
「いちおー彼女ん家に何人か泊められるスペースがあるらしいんで、宿代は心配しなくていいはず」
宿代がいらないなら、かなり安くつく。それなら何とかなるかもしれない。
「それで、東京で何かあるんですか」
「あー、そーね」
椅子を回してこちらを向くお姉さん。
「コミックマーケット。って知ってる? あるいはコミケットとかコミケとか」
聞いたことがあるような、ないような。語感としては漫画の市場。
わたしが思案してる様子を見て、お姉さんは言葉を継ぐ。
「じゃー、同人誌ってのは?」
それは知ってる。
「美術部とか文芸部の子が持ってきてたりしてます。駅前の本屋にもあったような」
漫画やアニメのキャラを元にして作る漫画や小説の本がある、ようなことは漠然と知っている。お姉さんは頷く。
「同人誌の即売会。まあフリーマーケットみたいなのね。それが東京であるの。この辺にも地元のイベントはあるけど、規模が違うからねー」
まあ全国から色々なのが来るわけさとお姉さんはにやりと笑うが、すっと醒めた表情になる。
「つっても、ドがつくオタク向けイベントっていうかさー、人混みが酷いから来いとはいわれてもなかなか行く気になんないんだな」
コミケが何なのかはまだよくわからないが、お姉さんはそれに行きたい半分、行きたくない半分で揺れ動いてるように見える。
「行きましょうか」
ここはわたしからも攻めていった方がいいだろう。
「おっ。割と乗り気? もしかして何かヨイショしてるのがあるとか」
首を振る。わたしはこれといって何かにはまったりしたことはない。だから、同人誌を持ってきたり作っている子たちも横目で見て、そういう文化があると知っているくらいだ。
「そっかー。今年のガンダムとか凄いけどねー」
教室の喧噪で聞いたことはあるような話題だ。こういうところで世の中は繋がっているのか。
「パロディだけじゃなくて、自分でいちからやる創作とか、よくわからないのも多いのがコミケの魅力かなー。だから君にも何か見つかるかもしれないし、見つからないかもしれない」
いつもの適当な調子が戻ってきた。これでこそだ。
「まー、ともかくさー。親御さんへの挨拶しないとどうにも進められないわけだし。煽ってくれた分、責任は取ってもらうよん」
口の端を上げ、にいと笑うお姉さん。
そうだった。行けるかどうかはまだわからない。
「そう、ですね」
一気に現実へ引き戻される。しかし、これで当面の予定というか、目標は立った。
行けるか行けないかは、うちの親次第だ。
「今年は色々あったし、親御さんが駄目と言ったら諦めること」
確かに。今年は年明けから大地震や物騒な事件が立て続けに起こった。そのことが間接的に遠出を邪魔するかもしれない。
それ以前に、うちの親は突然出てきたいくつも上の自称先輩に、はいよろしくお願いしますと娘を預け、東京まで行く許可を与えるのか。それを心配すべきだ。
こういうことになるなら、もうちょっと早く、一学期中にでも親に紹介したほうがよかった。そうすれば、勉強を見てもらった実績などで、親に信頼してもらえたかもしれないのだから。
とはいえ、その頃はまだちっともこんな話が出てきていなかったからしょうがない。お姉さんも、さっきそういえばと思い出したような話だし。
そんなことを考えていたら、お姉さんがうなりながら口を開いた。
「うーん。しかし、どう説明したもんかなー」
パソコン通信やコミケのことを親に説明するのは大変そうだ。
しかも、理解されたからといってそれが認められるかはわからない。そんな偏見を親が持っているという偏見が、わたしにはある。
「向こうの友達に呼ばれて東京見物に行く。くらいでいいんじゃないですか」
「そこまで話をぼかすかー。なかなかの悪よのう」
嘘にはしてない。お姉さんの言うとおり、話をぼかしているだけだ。しかしお姉さんは顔をちょっと真面目にして、釘を刺してきた。
「ただ、あたしの立場としては、できるだけ誠意ある説明をしたいし、親御さんの意向を汲む。こんなことで縁切りとか嫌だかんね。そこんとこは大丈夫?」
言われてちょっと反省し、頷く。しかし、やはり変なところで誠実な人だ。
「しかしまー、こーやって何かする予定を立てるのはいいねー」
特にあてのない無責任なやつほどいいと続けるのが、お姉さんらしい。
「遠足の準備が一番楽しい。みたいな話ですね」
「そうそう、そんな感じ。実際行くといろいろあるし疲れるんだよー」
笑い合う。確かに、別にこれだけでも全然構わない。
ここに来て、漫画を読んだりパソコンを使わせてもらいながら、とりとめのない話をする。そういう時間が、一番大切だ。
そういう当たり前のことを再確認できたので、少し焦りから醒めてきた。
旅行もいいけど、まずは目の前のことだ。とりあえずはうちの親とお姉さんが対面する場を、どうやって仕込むかが課題である。
しかし、改めて考えてみるとお姉さんが今日言ったように、最初は電話で挨拶してもらうのが一番よさそうだ。いつもと同じように電話し、お姉さんが改めてご挨拶をしたいと言い出したていで話を取り次ぐのが自然だろう。これなら親が家にいれば、いつでもできる。
そのときに電話のこちら側で旅行のことをわたしが切り出し、お姉さんが改めて説明するのがいいだろう。
イメージができた。しばらく沈黙して頭の中でそんなささやかな陰謀を組み立てていると、お姉さんがこちらを見ていた。
「まーた何か悪いこと考えてない? 黙り込んじゃってさ」
「お姉さんをどうやって親に紹介しようか考えてたんです」
「ま、いいと言った手前、プランはそっちに考えてもらってもいいかなー。で、花束抱えてお嬢さんをくださいとでも言ってみる?」
冗談だろう。いかにも冗談だというにやにや笑いを浮かべている。
ただ、この人からはそれをやってくださいと言ったらやってしまいそうな、おかしな行動力も感じる。
「今度電話したとき、親が家にいたら挨拶してもらうだけです」
そのとき旅行の話をされたって説明しますから。そう補足して伝える。
「ま、ふつーそうだよねー。いきなり顔を合わせるのも、先輩後輩の距離感だとおかしな話だし」
そんなものなのだろうか。人が嫌いなわけではないが、学校での人間関係はクラスメイトより遠くの人になると極端に少ない。それでも同級生だと合同授業などで顔くらいは知っている人が数人いるが、先輩や後輩になるとまったくわからない。学校の行事や生徒会の仕事などで最低限関わるくらいだから、そういう未知の人たちと友達づきあいをするときの普通などさっぱりだ。
「そんなものなんですか」
「んー、あたしもよくわかんない。漫画やアニメからの知識ってやつ?」
なんとも肩すかしだが、お姉さんらしい答えでもある。
「まーその、できるだけ誠意を持って話はするから」
確かに、いくら企んでも、今のところそれ以上のことは言えない。
そういうわけで、またわたしたちはいつもの活動に戻った。
わたしは部屋に散らばっている漫画から適当なのを読み、お姉さんはパソコンに向かってキーを叩いている。東京の友達に一応行くかもしれないとメールを送るらしい。その人は店を出す側のサークル参加なので東京にいるのは確実だが、サークル側は準備などでいろいろ忙しいそうだ。というか、コミケで出す同人誌の原稿を描いて印刷所に送らないといけない今この時期が一番大変なんじゃないかな。などと他人事のようにお姉さんは笑っていた。
「よーし書けたしもう出した。返事はいつかわからないけど」
いつものように電話のプッシュ音とノイズ、しばらくして通話の終わる音が部屋に響くと、そう言ってお姉さんもデスクに置きっぱなしの雑誌を読み始めた。
お姉さんがやっているのを横で見たくらいの知識だが、パソコン通信は電話で会話するように通話したままで通信するのではなく、あらかじめ何をするか準備し、それを自動処理させるものらしい。
電話料金は特に長距離通話だとかなり高いし、ホストという通話先も個人で運営しているところなら回線がひとつ、よくて数本しかないという。
だから、効率よく行なうのが秘訣だとお姉さんは言った。
始めた頃には何もわからず十万円くらいの請求が来て家族会議になったとか、そんなこともあったらしい。よく続けさせてもらえたものである。
「そういえば」
パソコン通信のことを考えていると、ふと気になったことがある。
「んー?」
「パソコン通信で何の話してるんですか」
さまざまな困難を乗り越えた先に、何があるのか。
「何のってもなー。それこそアニメとか、この間みたいなゲームの話とか、そーゆーあまりお天道様の下では話し相手がいないような話題かなー」
漠然としている。さっきコミケの話をちょっと聞いたりしたから、その辺の話なのだなとわからないなりにわかる。
「濃いとこだといろいろな意味で凄い人が多くてねー。面白かったり勉強になったりするわけ」
含みのある言い方だが、実際にいろいろあるんだろう。お姉さんみたいな人の見本市だと考えれば、失礼だがお世辞にもまともとはいいがたい。
「ま、あたしなんてしょせん一介の消費者だって認識させられるなー。そんなとこ」
ちょっとわからなくなってきた。
「消費者ってどういうことですか」
「んとねー。作る側、プロやってる人も結構いるんだ。漫画家とか。プロじゃなくても、何か作ってコミケとか出てる人もいるし、プログラムやイラストをアップして発表する人もいる」
なるほど。そういう人たちを生産者とすれば、ここで漫画を読んでいるわたしなんかは消費者だ。
「お姉さんは、何か作ったりしないんですか」
「あたしかー。まあ一応タコなプログラムとかアップしたりはしてるけど」
「それじゃあ生産側じゃないですか」
「いやいやいや、いやー、どうだかねー」
いやいやと謙遜してるようだが、その量からするとまんざらではないらしい。
「まあその、そこまでばばーんとでっかいことはやってないの。自分が作ったもののお裾分け感覚でね。ただ、コミケとかイベントに出なくても、個人でそーゆーことを気楽にできるのが、パソ通のいいとこよ」
それはそうだ。東京に行かなくても、小さなことなら部屋からできる。
「ただまー、東京でパソ通もできるってのが一番強いんだけど。通信費高くてねー」
一気に夢から醒まされる。この落差もこの人の魅力ではある。
「そういや、コミケとかに食いついたけど、何かやってんの? 絵とか文章とか」
「いえ、全然です」
これには即答できる。わたしには追いかけてる作品や、自分で何かを表現したい欲求のようなものはない。
「まあそんなもんだよねー。っと、もう昼過ぎてるや。何か食べに行く?」
時計はもう一時を回っていた。開けっぱなしになった戸の向こうには、あまり使ってなさそうな台所が見える。幸い、母が仕事だと鍵っ子なので簡単な料理はできる。
「何か作りましょうか」
「お、いいねー。ご飯は昨日炊いたのがあるから頼める? 適当に使っていいから」
承諾を得たので台所へ行くと、冷蔵庫を開く。殺風景だが、汚くはない。キャベツと豚肉、もやしが目についたので、野菜炒めにでもしよう。
恋人の家に来て料理をするような感じになって照れくさい。考え方を変えよう。
「じゃあ、今日はわたしが生産者になります」
そう言って、台所に立つ、小さなことなら部屋からでもできるのだ。