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五月のメモ

家に帰りたくない。

家族の仲が悪いわけではない。おかしな隣人に悩まされているわけでもない。

共働きの両親にわたし、地方都市の住宅地にマンション住まい。よくある核家族。父親は母親のパートが忙しい時や、自分が休みの日には家事をこなす。そんな日の料理の味はいつもと少し違うけれど、母は結婚前を思い出すと懐かしがるしわたしも嫌いではない。

そんなわけで、両親の仲は暑苦しいほど良くはないけど、悪くもない。

わたし自身も中学受験で中高一貫校へ入り、成績は平均より少し上くらい。惜しかったね、もう少し頑張れ、みたいな言葉は掛けられるけど、怒られるほどではない。

もちろん、生活態度も。中高一貫では、人間関係が六年もの間ほぼ固定される。中学卒業で過去を清算し、高校でやり直すことはできない。だから、極端にはめを外す子は稀にしかいない。さらにわたしの人間関係は校内の友達で占められ、恋人もなし、もちろん近頃問題の大人とのお金を伴った交際もない。

ややつり目がちできつそうだと言われるのはちょっと気になる。外見で変な印象を持たれるのは困るから。一番目立つのはぱっと見てもわかるくらい色素が薄い栗毛であることくらいだけど、肩までのシンプルなロングにしているので、そこまで人の目を引くことはないはず。

わたしは、幸運と自らの努力によって作り出されたこの状況に満足している。

特に褒められることも怒られることもなく、単調で平穏な毎日。

だけど、家に帰りたくない。

そこにはなんとなく閉塞した雰囲気、息苦しさのようなものを感じる。しかし、親や先生には相談するのは避けたい。わたしが何らかの問題を抱えていると判断されれば、平穏は脅かされる。よくない。

あまり物事を抱え込みたくないから部活には所属しておらず、同じ帰宅部の友達に誘われれば、駅ビルにある店やファストフードで時間を潰して家に帰る。

親から特に咎められることはない。中学生にもなれば、それくらいの友達づきあいは当然のことだと考えているらしい。ただしあまり遅くならないこと、お小遣いを無駄遣いしないことなどについて、たまに釘を刺される。

他には、学校の近くにある図書館。ここはお金も必要ないし、本を読むことも宿題を進めることもできる。正直なところ、友達につきあうより楽だと感じる日もある。

もちろん、友達づきあいも適度にこなしつつ。平穏は維持する努力が必要である、特に人間関係は。

そんな風に、わたしは家に帰りたくないようになった数ヶ月をやりすごしてきた。

ただ、その日はちょっと事情が違った。

試験期間が近づく教室は誰かが帰りに遊んで行こうと提案するような雰囲気ではなかったので、わたしは授業が終わると早々に図書館へ向かった。

周辺の人通りはいつもより少なく、駐車場にも車がない。

『整理のため本日は休館です』そう書かれたプレートが閉ざされたドアのガラス越しにかかっている。

うかつだった。

館内にいくつかある掲示板にはカレンダーを貼っていて、それを覚えていたはずなのに。

「仕方ないか」

呟き、きびすを返す。閉まってるなら仕方ない。

友達はわたしが図書館へ向かっている間に来たバスでもう帰っただろうけど、ひとりでも駅前をぶらつけば何時間かは潰せる。そんなことを考えながら学校前のバス停へ戻るが、時刻表を確かめるとあと二十分くらい待たされることになっていた。

そうなると、待ってる時間を使って移動した方がいい。急ぐわけではないし次のバスより遅くなるかもしれないけど、ただ待っているより近くの商店街を通って駅まで出た方が暇つぶしになる。

そこには夕食の材料や惣菜を売る声が響き、揚げ物を揚げる油や煮物の匂いが漂ってきている。この辺りはわたしが通うところも含めて学校が多く、大学もいくつかあるから学生街としても賑わっていて、うちの学校も寮生の子たちはだいたいここで買い物をしている。その子たちが話題にしていたことがある惣菜屋さんを見つけたので、牛肉コロッケを買う。油がにじむ紙に包んでもらいひとつ七十円。揚げたての衣がいい音を立てみずみずしい脂が口の中に広がる。そのおいしさは百三十円のハンバーガーより経済的だと感じるけど、寮生の子たちに言わせればなんか田舎臭くて嫌らしい。駅前のファストフードに行くことが彼女たちの間ではささやかなお洒落だと聞くと、環境が文化を作るのだと感じる。

総菜屋さんの前でコロッケを食べながらいつもはバスで通り過ぎるだけの周囲を観察していると、確かに寮生の子たちが田舎臭いというのはなんとなく理解できる。都市部から外れているここが農村から住宅地になるまでに建った個人経営のスーパーや食料品店に電器店、対象年齢が高めの衣料品店、仏具屋、文房具店などが並び、その間に学生目当ての定食屋や居酒屋、古本屋が軒を連ねる。通りの向こうにあるコンビニが場違いなくらいの商店街。

総菜屋さんのおばさんはわたしが着るモスグリーンのセーラー服を見て愛想よく応対してくれたけど、ここは確かに中高生向けじゃない。

何か老けているというか、わたしたちの年頃がテレビや雑誌で触れているものと接触できない。

コロッケを食べ終わって包み紙を畳んでいたら、おばさんが捨てておくからと声をかけてくれた。

ありがたく渡しながらも感じたのは、こういうところがたぶん中高生の望む生活環境とずれていること。

場違いな原色の装飾に飾られたコンビニの前を通り過ぎてしばらくすると、駅前でも耳にする電子音が響いてきた。

ゲームセンター。

だが、駅前にあるようにキラキラした外見の入り口にクレーンゲームやメダルゲームを並べているような店ではない。両開きの引き戸が開け放たれたその先にあるのは、わたしがわかる範囲で格闘ゲームが何台かとテーブルに画面がはまってるタイプの麻雀やパズル。他はよくわからないが、いろいろある。入り口の近くにはパンチ力測定のゲームがあり、大学生らしい集団が笑いながら遊んでいる。駅前のゲームセンターだと一番いい場所にあるクレーンゲームは、ここだと店の奥に一台あるだけだった。

店内のゲーム機には何人か大学生らしい人たちが張りついている。何人かはタバコを吸いながらで、ただでさえ薄暗い蛍光灯の照明を曇らせていた。

腕時計を見ると、まだ四時ちょっと前。小銭はあるし、テトリスくらいなら父親が持ってるゲーム機でやったことがある。

わたしは意を決してその異空間に足を踏み入れた。店内で人が動いた気配を感じる。中学生が珍しいのだろうか。

店の奥にあるカウンタでは、少し寂しくなってきた髪を七三分けにしてポロシャツを着た店長らしきおじさんがこれまたタバコを吸いながら漫画雑誌を読みつつ、一瞬視線を外してこちらを窺ってきた。その後ろでは小さな換気扇が回っているが、煙を外に吸いだしている様子は全然ない。

テトリスを見つけて財布から百円玉を取り出しコインの投入口を見ると、二十円だった。安い。さっきのコロッケのおつりでゲームができる。十円玉を二枚入れると、タイトル画面に変わり、ゲームが始まる。だけど、うまく動かせない。いつも使ってるコントローラじゃないからか。ジョイスティックというらしいこれは、動かしづらい。数段がすかすかのまま上にブロックが溜まりはじめたので、慣れることに専念して少しでももたせるようにする。二十円だって入れたお金は惜しい。少しでも長く遊びたい。

なんとかさばきながらも、画面がブロックで埋まる。数分。といったところだった。けれど、動かし方はなんとなくわかってきた。財布の中にはまだ何枚か十円玉があったので、それを使ってもう一度。

今度は割とうまくいった。ぎこちない部分はあるけど置きたい場所にブロックを置ける。だんだんブロックが落ちてくるスピードが上がる。これは家でやって慣れている。暇があればテトリスをやってる父ほどではないけど、わたしだってまあまあやれる。あとは、操作さえできれば対応できる。

そして、また画面がブロックで埋まる。

時計で確認すると、今度は十分くらいは粘れたみたいだった。

「ふうん。やるじゃん」

不意に背後から声がかかる。気が抜けているけど、底の方に鋭さを感じる声。

椅子の上で体を回してみると、壁際に置いてある灰皿の横でタバコを吸いながら大学生くらいの女の人が壁にもたれかかり気だるげにこちらを見ていた。

丸顔のせいか結構童顔なのに、何かに疲れたような眠たげな瞳がアンバランス。そんな顔に前髪を眉のところで切りそろえたぼさぼさの長い黒髪が乗っている。服装もちょっと袖口が、いや全体がよれているカーキ色のカットソーにジーンズを穿いてるのに、靴だけ女子高生が履くようなローファーなのもずれてる。

ひとつひとつは特になんともないのに、全体を見てしまうとずれた人だと感じる。

「すみません。次やりますか」

待たせてたのかもしれない。

「いやー、いいよ。最初はあんなだったのに、二度目であれだけ適応するのやるじゃん。ってこと」

天井に向かって煙を吐きながら、気のない声がふわりと抜けていく。

「それにさ、あたしはあれだから」

笑ってるのだろうか、口の端をちょっと上げて指差したゲームの画面では、まねき猫を背景に武士らしきキャラが斬り合っている。格闘ゲームだろうか。いぶかしんでる間に彼女はタバコを灰皿で揉み消し、こちらへ向かってくる。

「だけど中坊がテトリスなんて渋いね。今の子は大体格ゲーなんだけどなー」

椅子に座ってるわたしに目線を合わせると、にいと悪戯っぽく笑う。さっきのあれも笑いだったことが、これで理解できた。

「これしか知りませんから」

「そんな子がこんな店に来るのかー。それならここもしばらく安泰かもね。んじゃ」

変な人はそのままさっき指差していたゲームに向かうと、コインを入れた。しばらくすると画面の中では小坊主のようなキャラが低い声で戦い始めた。そういう格闘ゲームなんだろう。

わたしもまだ小銭があるのでテトリスを再開する。今度は積み方を考えていく余裕もできてきて、さっきよりは粘れた。組み立て方は同じだから、操作に慣れればまだいける気はする。

ブロックで埋まった画面を見ているわたしに、また背後から声がかかる。

「君、中学生でしょ。五時も過ぎたし悪いけどそろそろ帰ってくれないかな」

漫画雑誌片手に店長らしき人が声をかけてきた。小太りだけど意外と声が高い、学校の社会科教師に似た声質。

「条例だと六時だけど、学校から色々言われてるわけ。まあそういうことだから」

そう言われたならしょうがない。口答えをする理由なんてないし、バッグを持って立ち上がろうとする。

「あー、待っておっちゃん。その子あたしの連れ。後輩」

さっきの女の人が瞳を画面に釘付けにしたままゲームを器用に操作しながら、声だけを店長にかける。

「んだから、あたしが終わるまでちょっと待たせてて。もーちょい」

反論する暇もなく、わたしはあの人の連れということにされてしまった。おじさんはわたしとその人を交互に見て、口をへの字に曲げてカウンタへ戻っていった。

「遅くなるなよ」

事実、それから五分もしないでゲームは終わった。謎の女の人はわたしの方を向いて片手を上げる。

「行こっか」

「あ、はい」

流されっぱなしで危険な気もする。ナンパの手口もこういうのなのかもしれない。そんなことを考えながら、わたしたちはゲームセンターから出た。

「ちょっと待ってて、チャリの鍵開ける」

太陽はまだ高いので面倒ではないはずなのに、黒いママチャリに屈みこんだ人影のところで何度か金属音が鳴る。それが続き、じゃりっという音がして鍵が飛び出る。というよりお姉さんが引っこ抜いた。多分、中で錆びてる。

「ちっくしょー。もう限界近いかな」

言いながら自転車を引いてわたしの方へやってくる。

「寮生じゃないでしょ。そろそろ暗くなるし駅まで送るわ」

確かに。寮生は門限が厳しいし、校外での遊びについては色々口うるさく言われるとは聞いている。だけど。

「何でわかるんですか」

「あたしがあんたの先輩ってのは本当だから」

嘘じゃなかったらしい。お姉さんは自転車に乗らず転がしながら、勝手に話してくる。

「通学生はだいたいあの商店街使わないし、寮生はゲーセン来ないし。珍しかったのよあんた。で、何かの理由で駅まで歩いていく途中だったのかなってね」

そんな名推理を披露しながらジーンズのポケットから無造作にタバコを取り出すと、一本取り出して咥える。

「ごめ。これないと落ち着かないからさ」

頷く。歩きタバコなら注意するかもしれないけど、ただ咥えてるだけなら害もない。

からからと自転車の車輪が回る音に合わせ、わたしたちは歩く。だらだら歩きながらも商店街を抜け、学生街と駅前繁華街の緩衝地帯になっているオフィスビルが立ち並ぶ地区へ入ってきていた。会社帰りの人たちがそこそこいるが、人通りは少ない。ひとりだと不安になってたかもしれないので、お姉さんについて来てもらったのは正解だった。

「あの」

わたしは、意を決した。タバコを咥えたお姉さんの顔がこちらへ向く。

「ん?」

「何でわたしに声かけたんですか。それに、連れとか言い出して」

「あー」

お姉さんは器用に口の右側でタバコを咥えっぱなしにして藍色になりつつある空を仰ぐ。

「渋くて面白いから。てのは冗談にしても、なんかね。ごめん、うまく言えない」

「なんですかそれ」

わたし自身にも意外なことに、抗議するような声音。

「それだ、それ。今その声で安心したんだけど、ゲーセン入ってきたときのあんたには虚無感があった」

そうなんだろうか。わたし自身にはまったく自覚がない。それに。

「それを言うなら、お姉さんだって。なんか気力が抜けてて、希薄っていうか」

口を尖らせる。他人に向かって辛辣なことを言ったのはいつぶりだろうか。だが、彼女は口の端であの笑みを浮かべる。

「はは、言うじゃない、いい顔してる。あ、ちょっと待った」

オフィス街のバス停にある灰皿の前で立ち止まると、お姉さんはタバコが入っていたのと反対側のポケットからライターを出し、一服始めた。

「まあさー、初対面の変なねーちゃんに言えとは言わないけど。スクールカウンセラー制度も始まったらしいし」

この人に冗談でも自覚めいたものがあったのにはちょっと驚く。だけど、それは。

「言えない悩みもあるんです。だいたいうちの学校、まだそういう制度入ってませんから」

わたしがそう言い放つと、無言で息を吸ってタバコを燃やし尽くすと灰皿に捨て、地面に向かって煙を吐く。それが終わったところで、相変わらず気の抜けた声。

「なんかごめん。詮索しすぎた」

「行きましょう」

返事はせず、先を促す。わたしだって言いすぎた。

お互い無言で歩いていくと、程なく群青の空を照らす駅前の賑やかな明かりが見えてきた。駅前広場の大きな時計を確認すると、まだ六時になるかならないか。電車に乗れば家まで三十分もかからず着いてしまうので、まだ少しは時間を潰したい。

それに、わたしの中に割って入ってきたおかしな同行者にも興味がある。家族でも、学校の人たちでもない、異なる世界の人。

「あの」

「ん? どうしたのさ」

「親の帰りが遅くてご飯ないから軽く食べていくんですけど、一緒にどうですか」

軽い嘘をつくのは日常茶飯事の癖に、妙に緊張する。

「ははあ。さてはあたしをナンパする気かなー?」

顔に出ていたのか声の調子が変だったのか、お姉さんはママチャリのハンドルに手をかけたままややうつむき加減になってしまったわたしの顔を覗き上げてくる。

「そんなんじゃ、ないです」

余計恥ずかしくなって、なんとかそれだけ口に出す。家族や学校の先生、友達でここまでわたしのペースを崩してくる相手はいない。お互い間合いをはかっている。この人には、多分そういうのがない。

「ん、いいよ。どこ行く? できればチャリ止められてヤニ吸えるとこ」

わたしがそんなことを考えてる間にもう興味はどこで何を食べるのかに移ったのか、その辺りの店を眺め回している。切り替えが速い。わたしが今まで出逢ったことのない距離の取り方をする人なのかもしれない。そういう意味でも、観察したい気になってくる。

「ハンバーガーでいいですか。あそこなら駐輪場も喫煙席もありますから」

「そのチョイスが若い子って感じだねえ。あたしだと焼き鳥とかになっちゃうから」

「中学生が入るのはまずくないですか」

「まあねー、大人になればわかるさ。なんつって」

そんな話をしながらお姉さんは錆びた鍵を自転車にねじ込み、ふたり連れ立ってハンバーガーショップへ入る。駅まで流れてきた下校途中や仕事帰りの人たちで結構混雑しているけど、喫煙席ならまだ割と余裕がある。わたしはアップルパイと氷抜きのコーラ、お姉さんはハンバーガーのセットを頼んで、コーヒーに入れる砂糖とミルクをごっそり貰っていた。席を確保したお姉さんは、その砂糖とミルクを一気にコーヒーの中へ入れる。

「入れすぎじゃないですか」

「普段は缶コーヒーだからさ、甘さに慣れきっちゃってて」

「砂糖水ですよね、それ」

「んだけど、タバコに合うんだなー」

灰皿を引き寄せ、咥えたタバコに火をつけ、煙を吐き出す。両親ともに吸わないので、その光景がなんだか珍しい。

「なんだよー、ジロジロ見ちゃって。あ、ポテト勝手に食べていいから。中坊が夜そんだけなのはよくないよ」

周りに煙をまとわせながら凄く甘そうなコーヒーを一口。そして二人用テーブルの向かいに座ったわたしの方へポテトの容器を向けてくる。

「あ。ありがとうございます」

アップルパイをかじりながら、ぺこり。頭を下げる。正直なところ、中学生のお小遣いで週に何回かファストフードへ通うのは割ときつい。友達と話すための場所代と割り切って二百円くらい出しているけど、お腹を膨らませるところじゃない。そんな訳で、この申し出は嬉しいものだった。

「たまに食べる分にはこのジャンクさがいいんだなー。ペラいパティとか」

ハンバーガーを食べながら、褒めてるのか貶してるのかわからないことを言っている。わからないことはない。こういう店なりの味があり、そういうのもたまにはほしくなる。というのは自然なことだと感じる。

タバコも吸いコーヒーも飲みながらのお姉さんより早くわたしはアップルパイを食べ終わり、ポテトを何本か摘まませてもらうとバッグから教科書とノートを出す。帰宅前にテスト勉強を少しは進めておきたい。

「中学はそろそろ中間か。懐かしー」

カウンタまでコーヒーのおかわりを取りに行っていたお姉さんが戻ってきて、また大量の砂糖とミルクを投入しながらわたしの様子を見る。

「はい。ここなら勉強もできますから」

「うるさくて集中できなくない?」

「家でやるよりは気が楽です」

言って気づく。ちょっと素を出してしまったかもしれない。

「そっか」

だが、お姉さんはコーヒーだったものをかき混ぜるのに夢中なのか、眠そうな瞳でそう気の抜けた返事をするだけだった。

試験勉強といってもうちの学校は必死になる生徒はそこまで多くない。中高一貫だからよっぽど悪くない限りは次に進める。赤点を取らなければいいという意識の子が多いので、公立校や進学校のような臨戦態勢になる校風ではなく、のんびりしている。高校になると大学受験もあり、そうでもなくなるらしいけれど。

温存しておいたコーラでたまに喉を潤しながら、教科書とワークブックの練習問題を進める。

「そこミスってる。χはマイナス」

「あ、ほんとだ」

書いた途端、指摘が入る。よく見たら確かにその通りだった。

「これでも大学生だかんねー」

あの不可解な笑顔で自慢げに顔を上げられた。斜め上に向かってタバコを吹かしながらだったのに、こっちまで観察されていたのには驚く。そんな目で見ていたのに気づいたのか、更に言葉を重ねてくる。

「観察力はある方だって言われてんの。それを有効に使えてる気はしないけど」

「使えてますよ」

少し緊張したのでコーラを口に含む。

「だけど観察したところで意味かわかるかどうかは別問題だし」

お姉さんは新しいタバコに火を点ける。

「わかっちゃっても、どうにもなんないことってあるわけだしさー」

大きいため息と一緒に、煙を吐き出す。

「難しそうですね」

わたしにはよくわからない。だけど返事をしないわけにはいけない気がするので、中身のない返事をするしかない。

「そうでもないよ。あんたみたいな面白い人がよく見つかるんだわ。だから、面白い」

面に薄く出てきた彼女の笑みを見て、わたしの感情は反転する。観察でもしてるつもりなのだろうか、だとしたら悪趣味。

「趣味悪いです」

「ごめん、語弊があった。そんな人たちと、そうだねー、話したりするのが面白い」

そんなことを言われると、気になってしまう。

「わたしは、面白いんですか」

そう問いかけると、お姉さんはタバコを灰皿に置き、眉根に皺を作った。

「わかんない。一見ふつーに見えるんだけど、壊れ物みたいな感じもするし。作為のある普通?」

ぎくりとした。確かにわたしは自分が普通であろうと努力している。

緊張したわたしをよそに、お姉さんは言葉を続けた。

「ただ、あんな場末のゲーセンにひとりで入ってテトリスやるなんて時点で、割と面白いよ」

お姉さんがくいっと背中の向こうへ指を指した先には、窓の向こう、煌々と明かりがついた駅前のゲームセンターがある。こっちには友達と連れ立って何度か入り、クレーンゲームやメダルゲームをしたこともある。

「ふつーの中坊はだいたいあっちだもん」

そんなものなんだろうか。わたしは誘われないとああいうところに行かないので、店ごとに客層があるというのも今日まで知らなかった。

「それなら、わたしからもいいですか」

言われっぱなしの中でちょっと思いついた、反撃。

「お姉さんだって、あんな場末のゲーセンで遊んで、わたしみたいな中学生に声かけてる時点で変な人ですよ。初対面なのに食事にまで付き合って」

彼女の頬が一瞬膨らみ、ぷっと吹きだす。その童顔も合わさって、一瞬同年代みたいに感じてしまう。

「そりゃそーか。それじゃ、お互い変な子ってことか」

言ってはみたけど何か釈然としない。変な子はこの人だけ、わたしは普通のはずなのに。

「わたしは普通です」

「そっかなー。割と無理してる気はするけど。ま、初対面の変な子に言われる道理もないよね」

言ってお姉さんは最後に残っていたポテトを食べきると、またコーヒーのおかわりを貰いに行った。もちろん、大量の砂糖とミルクも一緒に。

その間に、わたしは教科書やノートを片付ける。時刻はそろそろ八時になろうとしている。長居しすぎたかもしれない。

「ん、そろそろ帰る? そんじゃこれは帰りながら飲むか」

わたしの片付けを見ながら砂糖とミルクをかき混ぜてそう言ってくれているけれど、本当は帰りたくなんかない。何も問題はないはずなのに、心が拒絶する。

ただ、あの家以外、わたしに帰る場所はないのも事実。わたしの動きがちょっと止まってしまった隙に、お姉さんはテーブルの上に置いていたペンケースから勝手にボールペンを取り出し、書きづらさそうに紙ナプキンに数字の列を書いていった。

「あのさー」

わたしのペンケースにボールペンを戻し、ナプキンを差し出してくる。受け取ってはみたが、これは何なのか。

「あたしも大学生だし、付き合いでポケベルとか持たされてるの。で、これベル番」

お姉さんの顔が微妙に上気してるように見えるのは気のせいではなさそう。さっき吹き出したときといい、感情を表に出すと、この人は幼く見える。ちょっとかわいい。

「遊びたいときには、適当に連絡くれていいから」

悪い人ではなさそうだけど、やっぱりちょっと変な人だとは確信できた。

「あ、ありがとうございます」

かといって、わたしもどう反応していいのやら。一応受け取り、バッグにしまう。

そんな妙なやりとりをして、店を出た。まだ少し冷たい夜風の中、お姉さんはまた強引に自転車の鍵を外した。

「飲まなきゃ乗れないか。仕方ない」

彼女は結局残ったコーヒーを店先で一気飲みして、ゴミ箱へ。

「もう夜だし気をつけて帰んなよ。んじゃーね」

どんな挨拶をすればいいのか迷ってるうちに、さっさとママチャリに乗って行ってしまった。

わたしも駅に向かう。幸い五分と待たず電車は来て、十分もかからずに自宅の最寄り駅に到着する。午後からさっきまでの出来事が嘘だったかのように、いつも通りの風景が広がっている。

ただ、いつもと少し違うのは、わたしの制服に残るタバコの残り香。わたしとあのよくわからないお姉さんが数時間を過ごした証拠。

親には喫煙席しか空いてなくてそこでテスト勉強をしていたと言えばいい。嘘ではないのだし。

だけど匂いは消臭剤と夜風で消されることになってしまいそうで、それが少し残念。

顔に袖口を近づけ、そっと嗅ぐ。次に会うことがあれば、またこの香りに染められるのだろうか。

そんなことを考えながら、あまり帰りたくない家路を辿る。

帰ったらナプキンに書かれた番号を手帳に写さないと。そう考えながら。