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子午祭

夜空と、屋根の上でそれを眺める二つの影。
「なあ」

不意に片方の影が口を開く。なにと応えた声も、問いかけた声も未分化のもの特有な少し硬い透明感のある声をしている。

沈黙。

互いに俯き加減でちらちらと相手の方を伺っている。
「ねえ」

もう一方の影が問いかける。
「うん」

擦れ違う視線。そして、ふたたびの沈黙。涼しい夜風がすうと肌を撫でる。
「子午祭」

そう言って、右の影はその身を屋根に横たえる。
「祭がどうかしたの」

心配そうな顔をして、隣にある憂いを帯びた顔を覗き込みながら左の影が訊く。が、右に座る影は何も答えず、黒耀の瞳を曇らせたまま黙っている。
「恐いとか」

左の影がくすりと微笑い、朱金の髪を踊らせながら立ち上がるのを気のない目つきでみながら黒耀の瞳は呟く。
「恐い、けど」

ちらと左の様子を窺いながら、結局やるしかないしと続ける。
「ふうん」

左の影は顔を曇らせ、相棒に寄り添うようにして座る。
「そうなのかな」

躰を倒して空を見上げる。
「祭に出て、そのまま歳を取って」

相棒は何も言わない。言えないのか。
「なんとなくだけど、嫌だな」
「逃げ出す気なの」

かすれた衣擦れの音をたてて右の影は身を起こす。目には畏れとも焦りとも取れる色が浮かんでいた。しかし相棒はそんなことも関係ない様子で、別にといたずらっぽく笑い入れ替わりに身を横たえる。
「いや、ただね」

その言葉はどこか乾いている相手の心に砂にまかれた水のように染み渡った。
「今のままが一番幸せなのかも」

そう言うと左の影は瞼をうっすらと閉じ、寝息をたて始める。右の影はいつもこういう含みのある行動をする相棒に惑わされ、悪戯や冒険の片棒を担がされてきた。
「今のまま」

隣で寝ているものの言葉を噛みしめるように口に出す。

今のまま、人であり人でない日々。

いごこちの良い気怠さ。
「わかんない、な」

眠そうな声でわかんないさと茶化すように相棒が言う。あきれて寝転がり、空を見上げると吸い込まれそうだった。

結局、祭を受け王化され、そのまま歳を取って死ぬしかないとそれは考えている。

化外は祭を受けなければ追われるから、祭で人となる。拒めば、拒めばどうなるかなど想像もできないが、そんなことは考えたこともなかった。しかし相棒もいるならそれもよいと思うのも事実だった。

なるようにしかならないさ。と思考を自分なりに無難なところで終わらせ、それも眠りに入った。

子午祭は夏へ至る門。門が開かれるまでもう間もない時期の話である。

突き抜けるような青空の下を青草をかき分けながら輿がゆらゆらと進んでいた。

通るものが少ないとはいえ王の道であるのだから、貴人や富貴な旅人向けの輿があるのは不自然ではない。問題は、上に乗っているものである。輿のあるじはこの熱さだというに、黒い外套を羽織り緋色の頭巾で頭をすっぽりと覆っていた。

異様である。

容貌をことのほか気にする年ごろの婦人達ですら、うすものの外套を羽織り傘をさすくらいであるのに、この人物はまるで肌を見られまいとするように体中を厚い布で覆っている。

そのような異装であるが、同行の者達はそれが当然であるかのようにふるまっている。貴人は、それが常態の身分であるのだ。
「お、境の石が見えてきましたな」

輿の横に同行していた男がつとめて明るそうに言う。

中年にさしかかった辺りであろうか、何か金属を打ち出したようにも見える分厚い造りの顔は、官吏というより野辺の武人といった風情である。

が、輿上の人はそれに頭巾をゆらりと揺らしただけであった。
「この調子ですと割合早く着けそうですな。さ、お前達も頑張れ。酒代をはずむぞ」

よく通る大声で掻き手達を励ますと、男は先頭をきって歩き始めた。掻き手達も気合一声それに続く。

夏へ至る季節の風物詩である。

輿は無人の畠が広がる集落の外周部を通り抜け、静々と集落へと向かう。

中心に水汲み場を兼ねた広場があって、それを木造の背が低い建物で取り囲まれている辺土によくある集落。人々は彼らを迎える準備で忙しいのか、まばらだ。

ああ、わたしの。

わたしの故郷も。

貴人は輿に揺られながら、次々と押し寄せる胡乱な感情を押さえ切れないでいた。祭務官となった今でも、事あるごとに押し寄せる思い出の波。

今のようになっても、故郷が懐かしいのか。

否定するようにゆらゆらと頭巾を揺らしたとき。

祭に出るであろう年頃のものが、こちらを。

捨てた友が、懐かしいのか。

見ていた。

その未分化な黒耀の眼は全てを見透かしているようで。

後ろ頭を殴られたような衝撃を受け、祭務官はうずくまる。
「は、あ、どうなされましたか」

大柄な同行が慌てて駆けつける。面体は恐ろしいが心配りが利き、祭務官達とも普通にかかわりあえる好人物だ。

彼を心配させるのはよくない。祭務官はそう思い、言葉を紡ぐ。
「いや。何も、問題はない」
「そうでしたか。いやまあ、今日は少々暑すぎるかもしれませぬな。宿の者達に湯浴みの準備でもさせておきましょう」

安心して笑うと、男は大きな体に似合わぬ素早さで宿の方へと駆けて行った。

その背中を見送りながら輿上の人は先程の人物を探す。が、既に去ったのか周囲にそれらしいものはおらず、心の乱れからありえぬものを見てしまったかもしれぬとも思った。

思いを巡らせているうちにも輿は宿に着き、掻き手達が恭しく貴人をおろすと、中から同行の男と村の長らしい老人が出てきた。

男が話を通しておいたのだろう。村長のあいさつも手短に終わり、祭務官は部屋に通された。二人並ぶと男の腰より少し上あたりに頭がある祭務官が彼の後ろについていくその姿は、親子のようにも見える。

恐らく一番良い部屋であろう一人用としては広すぎるくらいの部屋には、寝台と入ってきた者の視線を遮る衝立がしつらえてあった。古式にのっとった用意だ。
「お疲れでしょうし湯浴みの準備をさせておりますゆえ、済んだらお呼びください」

村人の前である手前だろうか少しかしこまった様子で頭を下げる男が、祭務官には少し可笑しかった。

うなずきいて扉が閉まるのを確認すると、祭務官は衝立の後ろへ回る。そこには男の言った通り、大きなたらいになみなみと湯が注がれていた。ぐるりを見回し、伝統に従い部屋の窓全てに草で覆われた格子が取り付けられているのを確認すると、それは大儀そうに頭巾を取った。

紅玉のように赤い瞳と漆黒の髪が、抜けるように白い肌を彩っている。

続けて重い外套を脱ぐと、こもった熱気と甘酸っぱい香気が抜け、白い異相の肢体が露になる。夏物のざっくりと織られた生地で作られた短衣の左背から黒白まだらの小さな翼が伸び、無駄な肉がないすらりとした足も右のふくらはぎから下は群青の鱗で彩られていた。

ふう、とため息をついてそれは髪をかきあげる。肩より上で切りそろえてはいるものの、頭巾と外套で蒸れてしょうがないからだ。額にある疵や二本の角を見とがめるものもいないであろう。

短衣も脱ぎ捨て、たらいに入り湯を浴びる。祭の作用が体に及ばぬよう二の腕に刻まれた紋章が少し痛んだ、気がした。

この紋章を刻まれた時から、それは祭務官となり人あらざるものとなる。

いや。むしろ刻まれた時、人になることを拒絶したのかもしれない。

体を布切れで拭きながらとりとめもなく昔の事を思い出す。

何の悩みも無く友と遊んでいた幼い日々、祭を受け成長する年長のもの達。そして、自分にも訪れた祭の日。

あの日、わたしは。

昼間あの眼を見てからというもの、どうも昔の事を思い出していけない。

妙な感情を振り払うかのようにそれは乱暴に洗い髪を拭くと、短衣と同じような生地で作られた着替えの夏衣に手をかける。翼を出させるための大きな切れ込みが入っている以外、普通の衣である。

支度が済むと鈴を鳴らして同行に知らせ、片付けを指示する。衝立の外までたらいを持っていくと、宿の者達が片付ける。入れ代わりに少しの菓子と、香料を混ぜた水が運ばれてきた。これも、男が外で受け取り祭務官に渡す。
「一応、明日を目当てに準備がされておりますが」

湯浴みをしている間、男は打ち合わせでもしていたのであろう。
「そちらのご加減がよろしくなければ数日延期したほうがよいかもしれませんな」

自分も水を飲み、やはり私には酒のほうが合いますななどと言いながら祭務官の方を心配そうに見つめる。
「いや、いい。祭が済めば落ち着くであろうから、予定通りにしてくれ」

そう未分化のもの特有な硬質の声で言うと、祭務官は菓子をもう一口食べた。上都の菓子にはない素朴な味が広がって感傷が呼び起こされそうになるが、男もいるので意識を祭に集中させる。その様子をいぶかしげに見ながらも男は村外れにある広場で祭を行うこと等を話し、再び打ち合わせに行くと言って席を立った。

祭務官といっても、祭までに行われる手続きや段取りはほとんど同行につけられた官吏が行う。彼らが直接必要とされるのは、祭の中で王化を施す時だけである。

家柄も能力も関係なく、未分化のものを純化し分化させるという王の力を媒介し、王の兆を宿すことのできるという力が、それらをそれらたりえさせる。それらは王に最も近い上都に住み、通常より随分と長い時を得る。

その代償が、この体か。

そっと角を撫でると、爪のような触感がした。

もう一口菓子を食べ水で喉を潤すと、することも無くなったそれは寝台に這入る。少し休めば気分も変わるだろう。などと考えながら。

祭務官が寝入った頃、男は広場で村人達と明日の打ち合わせをしていた。

打ち合わせといっても祭はほぼ毎年行われ、男も祭務官の同行を何度も務めているため、場所の確認をした後は酒と他愛もない話を交わすことが多い。

連れの調子が良くなさそうな事が気になりながらも彼は村人達と酒を酌み交わして、旅の途中で仕入れた世間話を面白おかしく語る。祭のために中央から旅を続けてくる彼らは王の代理というだけでなく、離れた土地のことを珍しい客人ということでそれなりに歓迎されているようだ。

得意の踊りを披露し終わった頃、村の方から若い男が一人走ってきた。連れ合いに夕餉の支度ができたことを報せにきたらしい。これまた若いまだ未分化だった頃の面影が残る女を、一番の料理上手と結ばれて果報者じゃ。などと年長の者達がはやし立てる。話を聞くに宿の食事を作っているのも彼のようで、酒を酌み交わしていた者たちも宴を宿へ移すことにして村に向かう。

途中、広場に差し掛かったあたりで男の鼻に冷たいものが落ちた。
「こりゃ来ますな」

一行は誰ともなしに言うと速足になり、ぽつぽつと降り始めた雨の中を歩く。だが、一瞬で勢いを増した雨は宿が見えた頃はもう地面がぬかるむほどの大降りになっていた。

祭務官は窓の外から聞こえる雨音で目を覚ました。

この時期によくある雨。

少し横になったおかげで疲れも和らいだ。水で口をしめらせていると、男がずぶ濡れになって戻ってきた。打ち合わせの帰りに降られたらしい。
「食事の支度ができたようです。持ってこさせましょう」

短く刈った髪を拭きながら、また外に出て行く。

少しして二人分の食事が運ばれてきた。穀物の粉を練って焼いたものと、獣の肉を煮た粗末なものだが懐かしい味がした。

食べるものを食べると、また暇になる。

同席してくれた男が外の様子を話してくれていたが、それも途絶えた。帰る途中で雨に降られて大変だったらしい。
「雨が無ければ、散歩にでも出られますが」

男と二人で見通しの良くない窓枠に頬を寄せて外を見てみるが、雨が止む様子も無い。

「祭で降らなければ良いのですが」

そう言って男はまた出て行った。飲みなおすのであろう。祭務官の行動も特に制限されているわけではないのだが、飲んで騒いだりするのは好みではないし、このように薄ら暗い気質のものが行ってもお互いの為にならないであろうから辞退している。

同僚からは、そういう性格が薄ら暗いと言われるのであるが。

ため息を一つし、短衣に着替えて寝台に転がる。ぼんやりとした獣脂の灯火を見ながら雨音を聴いているうちにうつらうつらとし、いつの間にか寝入ってしまった。

目覚めた時は既に明るく、窓から覗くと昨日の雨が嘘のように晴れあがっていた。祭の当日であるせいか、粛々とした雰囲気が村全体に漂っている。そして、晴れ上がった空から投げかけられる光は強くなり、夏のそれへと近づいていた。

寝ている間に用意してあったのだろうぬるま湯で体を拭き、着替える。本当に自分に同行する者や宿の者には苦労をかけていると思う。今は時代も変わり、この程度は自分でやっている祭務官もいるというのに。
「こういう仕事は少々もったいをつけた方が良いのです。その点、よくやっていらっしゃる」

などと男は言うが、本当のところ祭の前後になると妙な焦燥や緊張に襲われ、ほとんど使い物にならなくなるだけなのだ。追い立てられ背中を焦がされるような感情で体が震え、心の深いところで澱のように溜まっていた昔の記憶が噴き出してくる。幸い王の力はそんな感情とは無関係に体を伝うので、祭自体に問題が発生することはない。

気分を落ち着かせるために、水を飲み菓子をかじった。体に甘さが沁み、少々気分が落ち着く。

食事はまだできていないようなので窓の草を少し掻き分けて外をうかがうと、起きたのは割と早かったようで、そこここに朝の準備らしい煙が見える。

どこにでもある朝の風景。だが、その中にそれはいた。

朱金の髪と眼を持つ、それが。

何かを問い掛けるかのようにこちらを見ている。

なぜ、逃げなかったのか。

なぜ、そうなったのか。

なぜ、そうするのか。

なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ。

祭務官は声にならない悲鳴をあげ、寝台にうずくまる。

あれもそういう眼をしていた。自分と対になる右の翼を持って生まれたあれも。

声がよほど大きかったのか男と宿のものが数人、慌ただしく部屋に入ってきた。男に抱えられ、水を飲ませてもらいようやく現在に引き戻される。男は腕の中にいるものの様子を見て、宿の者を戻らせた。
「すまない」

まだかすかに体が震え、声がうわずっている。
「予定は変えないでいい。今日終わらせる」

一度爆発してしまうとかえって落ち着く。寝台に寝かされながらそう言い、祭務官は眠りに落ちる。

男はそんなそれを、哀れみや悲しみや愛おしさが入り混じったような複雑な表情で見下ろしていたが、顔を上げると準備をするために部屋を出た。

準備といっても、特にすることは無い。広場の中心にかがり火を焚くための浅い穴を掘ってその周りに火桶を並べ、分化後の者を入らせる幕を張ったら倉庫から運ばれてきた壇を組み立てて祭務官の座所を作るくらいだ。さして時間もかからず作業は済み、村は夕暮れまで暫しの静寂が訪れる。

嵐の前に一瞬訪れる、張り詰めた静けさ。

その気に当てられたのか、祭務官は目を覚ました。

この雰囲気に当てられると、仕事をしているという感じになる。特に意識しているわけではないが、心が座り今までの惑乱が嘘のように落ち着く。

しばらくそのまま横になり、迎えが来るのを待つ。胸元にこぼれた水が気になるが、どうせすぐに着替えるものなので気にしないことにする。

はたして、そう待つことも無く男達は来た。

自らも着替え、盆の上に礼装を持った男を先頭に身を清めるための水桶を持った者、祭務官と祭を受けるもの達のみが口にする特別な食事を持った者が続き、衝立の前にそれを置くと、男を残して皆が退出した。
「ご準備を」

男が水桶を衝立の中に運び、外に出る。

冷たい水で体を清め、この季節着るには少し暑い礼装に袖を通す。

背の部分がきちんと加工されて全体に細かい文様が刺繍されている夏衣と、例の黒い外套に緋色の頭巾。体を冷水で清めるのは、少しでも暑さを和らげようとする智恵なのかもしれない。

準備が済むと食事とは名ばかりの水と干した果物をかじり、一日ぶりの外界に出る。

夕暮れが近づいたとはいえど、昨日よりまた暑くなったのを恨めしく思いながら輿に乗り、祭の場へと進む。昨日と同じように村の中心を通ると、広場がある森の方へ向かう。

照りつける光とそれを吸った土、あらゆる場所から攻め立てる暑さに苦痛を感じながら一行は広場へと入った。

輿が到着するとざわついていた者達は静まり、静寂が支配する。

そんな中、祭務官と男はにわか造りの炉を囲み車座を作る村人達を見下ろす壇に片方は座り、また片方はその相手の傍に控え、夕暮れを待つ。

夕暮れの空が紫に染まる時分、祭が始まる。

炉とその周囲を囲む火桶に火が入れられ、奏者が弓を鳴らし笛を吹いて太鼓を打ち鳴らす。太く長く続くその調べは、広場だけではなく無人の村をも呑み込みそうなほど続き、それが最高潮に達した頃、祭を受けるもの達が舞い始める。

それは、勇壮な別れの宴であった。

天を掴むかのように手を伸ばし、大地を蹴立て、翼あるものは羽音を立て、角あるものは打ち鳴らす。王化の前、神々が最後に神々としてあることのできる黄昏。

神々は炉の周りで命を燃やすかのように踊り続け、最後の輝きを放つ。

一際大きな太鼓が響きわたったその時、異変が起きた。

火桶が蹴り倒され、それに動揺した人の壁を突き破るように、二つの人影が森の方へと逃げたのだ。

ああ、やはりあれは。

あの目はそういう目だったと祭務官は思い、影が逃げ込んだ森を見た。

村人がどよめくが男は群集を一喝して舞いを続けるように命じ、掻き手として控えていた武人達に後を追うよう命ずる。すると、驚くほどあっけなく場は静まり祭が再会された。

舞いは激しさを増し、奏者達の奏でる調に混じる哀しげでなまめかしい咆哮が炎を震わせ森を揺らし、発散される情動に耐えきれず力尽きたものがそこかしこで倒れ始める。

全ての神が倒れた後、祭務官は壇を降りてことを始める。

掌を神が発現している部分に当ててそっとなぞるとそれは嘘のように消え、神は人になる。王化の済んだ者は慣れぬ様子で立ち上がり、天幕で再び眠りにつく。

既に村人も奏者も引き払い、ことが終わった頃そこに残るのは祭務官だけであった。

一瞬の輝きと、残る静寂。

なんともいえない虚しさが胸を駆けるが、今回はこれで終わったわけではない。壇にある座所へ戻り、武人達の報告を待つ。

武人達が戻ってきたのは夜もふけ、夏衣なら肌寒さを感じ始めるであろう頃だった。男が何か叱責しているような様子なので、思わしい結果では無かったのであろうことはわかる。
「取り逃がしたようです」

男から正式にその報告を聞いたとき何か胸のつかえが取れた気がし、同時に何か耐えがたい欲求を感じた。

あのもの達は。

座所を蹴って走り出す。遠くで男や武人達が何か叫んでいるが、聞こえない。

邪魔な外套を打ち捨て、頭巾を剥き、あの日以来の姿で外界を走る。

逃げられるか。

森の中は思ったより障害が多かったが、木の根で足がよろめいても下枝に翼を引っ掛けても何とか持ち直し、あの日のように走る。

わたしが行くことのできなかった、扉の向こう側へ。

何回目かの根に足を取られ、勢いがついたまま体勢を崩す。思わず両手と片翼をもがかせるが、崩れた均衡は戻らない。

思わず天を仰いだその時。

二つの影が、木の上からこちらを。

見ていた。

ああ。

行けたのか。

体をしたたかにぶつけ息が止まる。

そのまま、心地よい疲労と土にその身を任せる。

直後、手の甲に水滴が落ちたと思うと、一瞬のうちに豪雨に発展した。

その轟音は夏へ続く扉を叩き開けようとする音。

祭の跡をも洗い流すかのような豪雨の中、久しくみることなど無かった夢をみた。

友でありまた憬れであった右に翼を持つそれ。

王化されてつまらなく生きることなんてない。そのまま森の中で夏を過ごそう。

木の実を食べて、泉の水を飲んで、昼間は木陰で寝て、夜に夜啼鳥と遊ぼう。

そして、そのままずっと暮らすんだ。

今のままずっと生きるというそれは素晴らしい提案に感じ、友とそれを実行した。

祭の日に逃げ出せば少しの間探されることはあっても、自分たちから逃げ出したもの達をいつまでも探さないだろう。

そう考え友と祭の日、踊りの最中に逃げ出し、わたしは。

わたしは捕まり、友は逃げ出せた。

最後に見た、あの眼が忘れられない。そして、あの眼と同じ眼をこの村で見つけて。 あのもの達は。

大きく分厚い手に額を触られ、それは目が覚めた。
「ようやくお目覚めになりましたか」

怒ったような困ったような顔で、男がのぞきこんでいた。意識が引き戻されるにつれ、ここが宿の寝台であることがわかってくる。

四肢が動くことを確認して起きようとするが、男に制されたせいで上体だけを起こして支えられる形になる。話を聞くに、どうやら二日ほど眠っていたようだ。
「あんな事をされた後にあの雨です。どうなることかと思いましたよ」

薬湯を飲ませながら、男はほっとした顔で愚痴を始めた。豪雨の中、武人達と深夜の森を泥だらけになって走り回った話を。

ひとしきり話が済んだところで、祭務官は口を開いた。
「逃げ出した、もの達は」

一際大きなため息をして、それどころではなかったと男は言う。仕事熱心なのは良いが、もう少し自分のことを考えてくれ、とも。

何か勘違いされているようだが祭務官は気が楽になり、窓を見た。豪雨のせいか草も無くなり、一段と高くなった空が見える。雲の形が変わっているのをみるに、あの雨が夏に到る最後のひとつであったらしい。
「夏、か」
「夏ですな」

この空を、あのもの達も見ているのだろうか。

右の翼が少し痛む。そんな気がした。

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